【蒲田川共同露天風呂】022
| シャトルバスで平湯温泉へ、天気が良くて勿体無いので | ||
| 栃尾温泉にある蒲田川の河原の共同露天風呂に行きました。 | ||
童心に帰って暫く川遊び、楽しい時間が過ぎました。
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| シャトルバスで平湯温泉へ、天気が良くて勿体無いので | ||
| 栃尾温泉にある蒲田川の河原の共同露天風呂に行きました。 | ||
童心に帰って暫く川遊び、楽しい時間が過ぎました。
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| 梓川越しの穂高連峰と明神岳です。 | ||||||||
| 梓川は大正池から流れ出す清流で、 | ||||||||
| ⇒犀川⇒千曲川⇒信濃川となって日本海に | ||||||||
流れています。
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| 大正池沿いに700mで中千丈沢の押し出しです。 | |||
| 現在も土砂が流入しているので、 | |||
池は噴火時の1/10になっているそうです。
![]() 田代湿原越しの穂高連峰です。
![]()
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| シャトルバスで一旦平湯温泉バスターミナルに戻り、 | ||||||||
| 乗り換えて再びシャトルバスで上高地に向かいました。 | ||||||||
| 昔は安房峠越しが大変で1時間以上掛かりましたが、 | ||||||||
安房トンネルの開通で20分で上高地到着です。
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| 一周後バスターミナルの食堂で天麩羅蕎麦定食の朝食、 |
| 朝食を食べたその場所で熊が射殺されました。 |
| 熊と遭遇していた可能性がありました。旅前に発生していたら、 |
一人でのんびりと、畳平の散策は出来なかったかも・・・
畳平の高山植物です。
ハクサンイチゲ
![]() オンタデ
![]() イワツメグサ
![]() イワギキョウ
![]() 次の11月06日(金)は
【上高地散策-1】019 です。 |
富士見峠を下山、畳平のお花畑の散策をしました。 |
| 木道が敷かれた散策路は一周30分程でした。 |
| 帰宅二週間後の9月19日、ここに熊が出没、 |
| 9名が襲われ、数名の重傷者が出たとの事、 |
| 最後に熊が射殺されたレストランまでの足跡を見て、 |
そこで食事をしていたので、鳥肌が立ちました。
![]() ![]() ![]() 次の11月04日(水)は
【乗鞍畳平の高山植物】018 です。 |
| 平湯温泉AM.3:30発のシャトルバスで乗鞍岳畳平へ、 | ||||||
約60分で、日の出前に富士見岳(2818m)に登頂です。
次の11月02日(月)は 【畳平散策】017 です。 |
キャンプ場の隣にひらゆの森がありました。
| 内湯の他には露天風呂が男湯6槽もあり、 | |||||
| 森の中の露天風呂三昧 でした。 | |||||
| 登山の汗を流して、露天風呂にゆっくり浸り、 | |||||
1日の疲労を回復させました。
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| 平湯温泉への途中の水場です。 | ||
| 冷水で咽を潤し、ペットボトルに給水して | ||
| 平湯キャンプ場へ向いました。 | ||
| キャンプ場の場所を確保して、 | ||
未だ日が高いので、平湯大滝と平湯の森に出掛けました。
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| 慎重に岩場を登下りして、独標を経て | ||
| 丸山まで戻ると遠くに富士山が見えていました。 | ||
富士山を見ると不思議と心が和みます。
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| 独標からの穂高連峰の縦走路です。 | ||||||
| 手前がピラミットピーク、 | ||||||
その次が西穂高岳(2908m)です。
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| 山荘から約20分の直登で丸山です。 | |||||
| 高度を上げると西穂独標・ピラミットピーク・ | |||||
西穂高岳の全容が見えて来ます。
|
西穂山荘近くの高山植物です。
≪ハクサンフウロ≫

≪ミヤマシシウド≫
≪サラシナショウマ≫

≪ヤチトリカブト≫

次の10月21日(水)は
【西穂高岳登山-3(独標)】011 です。
| AM.7:30登山者名簿に届けて、 | |||||||
愈々登山開始、目指すは西穂高岳です。
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| 天気予報によると、好天が続きそうなので、 | |||||||||||
明日は西穂高岳へ登る事にスケジュールを変更です。
次の10月17日(土)は 【西穂高岳登山-1】009 です。 |
| ここから本格的な登山道に成り、 | ||
40分で蚕玉岳(2980m)です。
更に20分で乗鞍岳剣ヶ峰(3026m)です。
|
| 350mで、お花畑を通過です。 | ||||||
乗鞍岳の頂上を目指します。
雪渓の残る池を過ぎると
|
| 自宅を早朝出発した為、 | ||||||||
| AM.11にはシャトルバスの発着所、 | ||||||||
| 朴の木平に到着です。 | ||||||||
| 好天に恵まれたので、急遽乗鞍岳に | ||||||||
登る事にスケジュール変更をしました。
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| 高山から約20kmで、飛騨大鐘乳洞です。 |
| 標高900mの山腹に位置し、観光洞としては |
日本一高い場所にある鍾乳洞との事です。
次の10月09日(金)は 【朴の木平バスセンター・乗鞍畳平へ】 005 です。
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| 更に700m程で国分寺です。 | ||||
| 高野山真言宗の寺院です。 | ||||
| 境内の三重塔と推定樹齢1200年、 | ||||
| 幹周10m、高さ37mの大イチョウが有名です。 | ||||
| 昔から、このイチョウの葉が落ちれば | ||||
| 雪が降ると言われています。 | ||||
国指定天然記念物.です。
|
| 古い町並みを過ぎ700m程で朱塗りの中橋に出ます。 | |||||||||
渡った所が高山陣屋です。
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【まえがき】
| 定年後計画した旅も9年目になりました。 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2001年 西国33箇所観音霊場巡礼の旅 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2002年 東海道53次の旅 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2003年 奥の細道を辿る旅 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2004年 四国88ヶ所遍路の旅 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2005年 中山道69次の旅 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2006年 北海道編 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2007年 東北編 | ||||||||||||||||||||||||||
| 2008年 関東編 | ||||||||||||||||||||||||||
2009年 信越・北陸・中部編
|
何時も旅行記を御覧戴き感謝です。
2009『日本の旅』信越・北陸・中部編を
10/01から隔日にUPする予定でしたが
急用で10/01(木)~03(金)不在になりますので、
001・002を前倒しで29日(火)、30日(水)にUPします。
今年も宜しくお願いします。
雄@大津
8/22(土)出発、
2009年の『日本の旅』信越・北陸・中部(前編)は
9/6(日)無事帰宅しました。
前半は天気に恵まれ、素晴らしい山歩きが出来ました。
計画通り、10/1(木)から隔日で旅行記をUPします。
御一緒に旅をしましょう!
西穂高独標です。
上高地、焼岳と大正池です。
乗鞍高原、ゆけむり館の露天風呂です。
ではでは、又の再会を!
衆議院選挙の不在者投票をして、
明日、8月22日(土)旅立ちです。簡単なスケジュールです。
途中、旅便りをUPする予定です。引き続き御覧戴ければ幸いです。
ではでは、行って来ます。
| 愈々終着地の大垣です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 門人の露通が敦賀の湊まで迎えに来て呉れ、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 駅馬に助けられて大垣の庄に入ります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 芭蕉の大垣来訪は3回目で、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 門弟に多くの大垣藩士がいたそうです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 曽良も伊勢から来て、越人も馬で如行の家に集まり、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
その外親しい人々が日夜来て、死んで生き返った者に | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
会うみたいに喜び且つ労わって呉れた。 とあります。
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
白砂青松の海岸で2km程松林が続きます。 | |||||||||
| 現在は敦賀原発で道路は完備されていますが、 | |||||||||
当時は交通の手段が無く、ここから船出したそうです。
|
| 「侘しき法華寺有、ここに、ちゃをのみ、酒をあたためて、 |
| 夕暮れの寂しさ、感に堪たり」 と 「奥の細道」 にあります。 |
| 寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋 |

| 本隆寺の句碑です。これは奥の細道にはありません。 | |||
衣着て 小貝拾わん いろの月
明日、8月20日(木)は 【大垣・あとがき】64 です。 愈々最終回です。 |
| 芭蕉と等栽は9月26日、 | |||||||||||||||
| 歌枕のあさむずの橋・玉江二の橋を過ぎて湯尾峠を越えます。 | |||||||||||||||
| 峠の茶屋の軒下に下がる庖療除けの杓子がさやかな月明かりに | |||||||||||||||
| 照らされて浮かび上がったのを見て、その姿をユーモラスに詠んだ | |||||||||||||||
と言われています。
月に名を 包みかねてや いもの神
|
| 9月24日、福井の等栽(洞哉)と言う旧友を訪ねました。 | |||
| 奥の細道には | |||
「等栽と言う知人がいる。以前江戸で尋ねて来た。 | |||
| どんなに老いているだろうか、死んでしまったであろうか、 | |||
人に尋ねた所、住まいを教えて呉れた。 尋ねると | |||
| 小家に夕顔や糸瓜が絡まり鶏頭や箒木で戸が隠れていた。 | |||
| 2泊して、敦賀の湊で名月に会おうと等栽と一緒に旅立った。」 | |||
| とあります。 現在、等栽宅跡は左内公園になっていました。 | |||
公園には芭蕉句碑がありました。 名月の 見所問ん 旅寝せん (この句は奥の細道にはありません)
明日8月18日(火)は 【敦賀-1】62 です。 |
| 芭蕉は | ||||||
| 天龍寺に2日間泊まり、一人で永平寺を参詣しています。 | ||||||
永平寺は1244年、道元禅師によって開山された参禅道場で | ||||||
全国に15000の末寺を持つ名刹です。
明日、8月17日(月)は 【福井】61 です。 |
芭蕉と北枝は9月22日、松岡にある天龍寺に到着しています。 | ||||
この寺の住職の大夢和尚はもと江戸品川天龍寺の住職で、 | ||||
芭蕉とは旧知の間柄であったそうです。
天龍寺境内に芭蕉の句碑がありました。 物書いて 扇引きさく なごりかな
明日、8月16日(日)は 【永平寺】60 です。 |
| 芭蕉と北枝は | ||
越前の吉崎の入り江から舟で汐越の松を尋ねています。 | ||
| 当時は日本海に面した砂丘に数十本の松があり、 | ||
| 風光明媚な場所であったそうです。 | ||
| 現在はゴルフ場の一角に追い遣られ、 | ||
枯れた松の倒木が1本横たわっているだけでした。
明日、8月15日(土)は 【天龍寺】59 です。 |
| 芭蕉と北枝は9月20日、 | ||
| 大聖寺の城主、山口玄蕃頭宗永の菩提寺、 | ||
全昌寺に泊まっています。
別れた曽良も前夜泊まり、書き残していました。
終宵 秋風聞や うらの山 (曽良)
![]() |
今日は越前の国に急ぐので遽しく堂下へ下りる時 |
若き僧達が紙と硯を抱えて追って来た。 |
| 丁度庭の柳の葉が散ったので草鞋ばきの侭書き残した。 |
庭掃て 出でばや寺に 散柳
明日、8月14日(金)は
【汐越の松】58 です。
曽良と別れた芭蕉は北枝と共に | |||
| 9月18日に那谷寺に参拝して再び小松に戻っています。 | |||
| 那谷寺は717年泰澄大師による開基の真言宗の名刹です。 | |||
西国33箇所観音霊場の1番札所の那智と | |||
33番札所の谷汲の頭文字から懐けられたそうです。
|
曽良と別れた芭蕉は北枝と共に | ||
| 9月18日に那谷寺に参拝して再び小松に戻っています。 | ||
| 那谷寺は717年泰澄大師による開基の真言宗の名刹です。 | ||
西国33箇所観音霊場の1番札所の那智と | ||
33番札所の谷汲の頭文字から懐けられたそうです。
石山の 石より白し 秋の風
明日、8月13日(木)は 【全昌寺】57 です。 |
| 奇岩景勝の遊歩道を進むと | ||||||||||||
| 草月流家元の勅使河原宏がデザインしたと言う | ||||||||||||
| あやとり橋に出ました。 | ||||||||||||
橋と言うより、S字状の現代アートでした。
山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
湯の名残 今宵は肌の 寒からむ
明日、8月12日(水)は 【那谷寺】56 です。 |
| 9月10日小松を発ち、夕方山中温泉に到着、 | ||||||||||||||||||
| 山中温泉には9月17日まで滞在しています。 | ||||||||||||||||||
| 1300年程前僧行基に発見されたと言う山の中のいで湯で、 | ||||||||||||||||||
| 兵庫県の有馬温泉に次ぐ効能を持った温泉と | ||||||||||||||||||
芭蕉は気に入っていたそうです。
|
| 芭蕉は金沢に着いた時、かねて会いたかった一笑に連絡しました。 | ||||||||||
| 一笑の代わりに来たのが牧童と言う加賀藩御用刀研師の立花彦三郎でした。 | ||||||||||
| その弟の刀研師である北枝が連日来て、芭蕉に弟子入りして | ||||||||||
| 120日間と言う曽良との長い二人旅に割り込み、芭蕉が加賀の領地を離れるまで | ||||||||||
| 恰も監視している様に執拗に付いていました。加賀藩が付けた監視役と言う説もあり、 | ||||||||||
これが芭蕉隠密説の根拠になっている様です。
建聖寺境内には芭蕉塚と句碑が建てられていました。
しをらしき 名や小松吹く 秋薄
むざんやな 甲の下の きりぎりす
明日、8月10日(月)は 【山中温泉-1】54 です。 |
| 北陸随一の繁華街は香林坊・片町です。 | ||||||||||||
芭蕉の辻はその片町の交差点にありました。
長久寺境内に芭蕉句碑がありました。 秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子
寺町の願念寺は小杉一笑の菩提寺です。
塚も動け 我が泣く声は 秋の風
明日、8月09日(日)は 【小松】53 です。 |
| 芭蕉達は8月29日、金沢に到着しました。 | |||||||||
加賀百万石の城下町です。
霞ヶ池を過ぎ、東端の山崎山の登り口に句碑がありました。
あかあかと 日は難面も 秋の風
明日、8月08日(土)は 【金沢-2】52 です。 |
8月27日、市振を発った芭蕉達は | |||||||||||||||
| 黒部川・片貝川・早月川・常願寺川・神通川・庄川等々 | |||||||||||||||
| 数多くの川を渡って那古の浦(新湊付近)に到着します。 | |||||||||||||||
那古の浦にある放生津八幡宮の境内には句碑がありました。 わせの香や 分入右は 有磯海
義仲の 寝覚めの山か 月かなし
明日、8月07日(金)は 【金沢-1】51 です。 |
親不知を過ぎると市振の宿場で街道の松が迎えてくれました。
| 宿場の中程に |
| 芭蕉達が遊女と泊まり合わせた桔梗屋跡がありました。 |
奥の細道には |
| 「 親知らず、子知らず、犬もどり、駒返しなど云う、 |
| 北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに |
| 間隔てて面の方に、若き女の声、二人ばかりと聞ゆ 」 |
| とあります。 |
明日、8月06日(木)は
【那古】50 です。
途中北国一の難所である親不知があり、 | |||||
| 国道八号線の難所の改修記念として造られた | |||||
親不知記念広場には母子像がありました。
明日、8月5日(水)は 【市振】49 です。 |
| 直江津の関川河口にある琴平神社に | ||||||||||||||||||||
その夜の句会での発句の句碑がありました。 文月や 六日も常の 夜には似ず しかし芭蕉達がこの琴平神社に参詣したかは定かではありません。
明日、8月04日(火)は 【親不知】48 です。 |
| 出雲崎は | |||||||||||||||||
| 佐渡からの金を荷揚げする港として栄えた宿場町でした。 | |||||||||||||||||
町の中心地の生家橘屋の跡に良寛堂が建っていました。
公園には良寛と子供達が遊んでいる像がありました。
明日、8月03日(月)は 【直江津】47 です。 |
奥の細道では9日間、越後路を旅していますが | |||||||||||||||
| 曽良の随行日記によると14日間旅をした事になっています。 | |||||||||||||||
8月18日、芭蕉達は寺泊、野積の西生寺を訪ねました。 | |||||||||||||||
即身仏の弘智法印のミイラを拝んだそうす。
荒海や 佐渡によこたふ 天河
明日、8月02日(日)は 【出雲崎】46 です。 |
| 8月3日早朝、鳥海山の全容を眺めて酒田へ向い、 | ||||||||||||||
| 不玉宅に宿泊して、8月10日、酒田を発ち、 | ||||||||||||||
翌11日に温泉で有名な温海に到着しています。
明日、8月01日(土)は 【越後路-2】45 です。 |
能登屋から10分程歩くと、かつては象潟橋と呼ばれていた | ||||||||||||||||||||
| 朱塗りの欄干橋に出ます。 | ||||||||||||||||||||
| 現在は閑静な住宅地になっていて何も見えませんが、 | ||||||||||||||||||||
当時は九十九島越に鳥海山が望め、素晴らしい景観 | ||||||||||||||||||||
| だったそうです。 | ||||||||||||||||||||
芭蕉達は何度もここまで来て眺めていたと言われています。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
芭蕉と曽良は象潟で以下三句を詠んでいます。
|
| 芭蕉達は昼頃象潟に到着、 | |||||
| 能登屋の主人の佐々木孫左衛門を尋ねました。 | |||||
| 丁度熊野権現の祭礼で混んでいて、 | |||||
| 向い側の佐々木右衛門方を紹介されてその日は泊まり、 | |||||
翌日8月2日は能登屋に泊っています。
あまの屋や 戸板を敷きて 夕涼み (低耳)
明日、7月30日(木)は 【象潟-2】43 です。 |
| 酒田港を見下ろす日和山公園の池には | |||||||||
| 当時の1/2の千石船浮かんでいて、 | |||||||||
酒田に来た文人の文学碑が広い園内に沢山ありました。
芭蕉像と句碑もありました。
暑き日を 海に入れたり 最上川
芭蕉達は難所の三崎峠を越えて翌日に象潟に到着しました。
あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ
明日、7月29日(水)は 【象潟-1】42 です。
|
7月26日、芭蕉達は馬で羽黒を出発して、 | ||||||||||||||||||||||||
| 鶴岡藩に到着しています。 | ||||||||||||||||||||||||
藩校致道館は九代藩士の酒井忠徳が風土を刷新して | ||||||||||||||||||||||||
藩政の振興を図ろうと1805年に創設されたそうです。
めずらしや 山をいで羽の 初茄子
明日、7月28日(火)は 【酒田-2】41 です。 |
| 芭蕉達は月山から湯殿山へ尾根伝いに縦走していますが |
| 車の為、山を迂回して湯殿山に着きました。 |
| 鳥居をくぐると写真撮影は厳禁です。 |
| 社殿は無く湯を湧き出す赤い巨岩を御神体としていて、 |
| 湯口は裸の女性が立膝をしている形で性器崇拝の |
| 名残だそうです。女陰から湯が湧くので御神体について |
| 一切他言してはならず、「語る無かれ」 「聞く無かれ」 と |
| 戒められている神秘の領域で、修行した修験者が |
ここで仏の境地に至ると言われていたそうです。 参道に句碑がありました。 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな 湯殿山 銭ふむ道の 泪かな (曽良)
明日、7月27日(月)は 【酒田-1】40 です。 |
月山を下山、羽黒山に登りました。山門をくぐり、 | ||||||||||||||||||||||
| 急勾配の石段を下ると国宝の五重塔が有りました。 | ||||||||||||||||||||||
芭蕉達も見たと思うとひとしおでした。
庭の片隅に句碑がありました。 有難や 雪をかほらす 南谷
明日、7月26日(日)は 【出羽三山-3(湯殿山)】39 です。 |
| 芭蕉達と同じ道を辿り、羽黒山に着きました。 | |||||||||||||||
| 今夜は羽黒山キャンプ場に泊まる事にしました。 | |||||||||||||||
| 夜中目覚めると満点の星空、あまりにも星の数が多くて | |||||||||||||||
| 星座が解らなくなってしまう程でした。 | |||||||||||||||
| 芭蕉は羽黒山に参拝して月山に登っていますが | |||||||||||||||
急遽月山を先に登る事にしました。
雲の峯 幾つ崩れて 月の山
明日、7月25日(土)は 【出羽三山(羽黒山)】38 です。 |
| 再び尾花沢に戻り、大石田から最上川沿いに進むと | ||||||||||
| 芭蕉が乗船した本合海に出ました。 | ||||||||||
ここに芭蕉と曽良の銅像がありました。 | ||||||||||
今日の流れは穏やかでしたが最上川は富士川、 | ||||||||||
| 球磨川とともに日本三大急流と言われている通り、 | ||||||||||
当時は雨上がりも重なって、流れは大変速かったそうです。
本合海に句碑がありました。
五月雨を 集めて早し 最上川
明日、7月24日(金)は 【出羽三山-1(月山)】37 です。 |
降り続いていた雨も上がり、7月13日晴 | ||||||||||
芭蕉達は勧められて予定に無かった山寺に向かいました。 | ||||||||||
| 立石寺山門です。 | ||||||||||
| 山寺は立石寺といい、860年に慈覚大師が開いたと言われ、 | ||||||||||
比叡山延暦寺に倣って創建された天台宗の古刹です。
山門を入ると直ぐに句碑がありました。
閑かさや 岩にしみいる 蝉の声
句碑の傍に芭蕉と曽良の像がありました。
|
山刀伐峠を越し暫く行くと、尾花沢です。 | ||||||||||||||||||
会うのを楽しみにしていた清風は紅花大尽と呼ばれる程の | ||||||||||||||||||
| 豪商で、俳諧を通じて芭蕉と交流があったそうです。 | ||||||||||||||||||
「芭蕉・清風歴史資料館」は店舗と母屋を移築した | ||||||||||||||||||
とありました。
這出よ 飼屋が下の ひきの声 まゆはきを 俤にして 紅粉の花
こがい(蚕飼)する 人は古代の すがたかな (曽良)
庭の覆堂の中に句碑がありました。 涼しさを 我宿にして ぬまる也 この句から芭蕉の心が見えて来る思いがします。
明日、7月22日(水)は 【山寺】35 です。 |
47号線を更に進むと山刀伐峠に差し掛かります。 | ||||||||||||||
| 現在はトンネルで一気に通過出来ますが | ||||||||||||||
| 当時は細い山道でした。 | ||||||||||||||
| ここが山刀伐峠への登り口です。 | ||||||||||||||
当時を偲んで峠の頂上まで歩く事にしました。
明日、7月21日(火)は 【尾花沢】34 です。 |
更に国道47号線を進むと尿前の関にかかります。 | |||||||||||
「関守にあやしめられてやうやうとして関を越す」 | |||||||||||
| と奥の細道にある様に伊達藩の境界で | |||||||||||
取り締まりは厳しかったそうです。
庭に句碑がありました。
蚤虱 馬の尿する 枕もと |
明日、7月20日(月)は
【山刀伐峠】33 です。
| 南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊まる | |||||||||||||||||||||||||||
| と奥の細道にあります。 | |||||||||||||||||||||||||||
芭蕉達は6月30日一関から岩出山まで歩いています。 | |||||||||||||||||||||||||||
途中の千本松長根は当時の雰囲気があり、 | |||||||||||||||||||||||||||
芭蕉と曽良がこの道を通ったと思うと感無量でした。
明日、7月19日(日)は 【尿前の関】32 です。 |
| 中尊寺は850年慈覚大師が開き、 | ||||||||||||||||||
| 清衡によって完成されたと言われています。 | ||||||||||||||||||
当時の侭現存しているのは金色堂だけだそうです。
|
| 芭蕉達は雨の中登米から一の関に着いて1泊、 | ||||||||||||
| 翌日雨も上がり平泉を見て | ||||||||||||
| その日の内にまた一の関の宿に戻っています。 | ||||||||||||
| 丘の上の義経堂には木造の義経像が祀られています。 | ||||||||||||
ここで義経は自害したと言われています。
夏草や 兵どもが 夢の跡
卯の花に 兼房みゆる 白毛かな (曽良)
明日、7月17日(金)は 【平泉-2】30 です。 |
| 芭蕉達は、姉歯の松・緒絶の橋等の歌枕を尋ねようとしたが | ||||||||||
| 道に迷ってしまい、石巻に出てしまいます。 | ||||||||||
日和山公園からの石巻港です。
| ||||||||||
| 愈々松島です。 | |||||||||||||
| 芭蕉は奥の細道の序文で「笠の緒付けかえて、 | |||||||||||||
| 三里に灸すうるより、松島の月まず心にかかりて、」と | |||||||||||||
この旅が松島の景観にあることを記しています。
松島や 鶴に身をかれ ほととぎす (曽良)
明日、7月15日(水)は 【石巻】28 です。 |
| やがて塩竈に着くと、 | |||||||||
製塩に縁りのあるお釜神社がありました。 | |||||||||
| ここには南北朝から室町時代に使用されたと言う | |||||||||
お釜がありました。
曽良の隋行記にはこのお釜を見たと書いてあります。
|
芭蕉は近くの歌枕である野田の玉川、沖の石、末の松山を尋ねています。
| 説明の看板があるので解りますが現在周囲は住宅街になっていて、 |
| 野田の玉川は何処にでもある町内を流れる排水路であり、 |
| 沖の石は町内の児童公園と言う感じでした。 |
| 当時ここは海岸だったとの説明に時代の流れを感じました。 |

| 沖の石から道かどを曲がると直ぐ末の松山でした。 | |||
末の松山は芭蕉が尋ねた当時と同様に末松山宝国寺と言う | |||
| お寺になっていました。芭蕉の時代からある樹齢450年と言う | |||
松の大木が印象的でした。
明日、7月13日(月)は 【塩竃】26 です。 |
| 芭蕉は加右衛門の画いて呉れた絵図を頼りに | ||||||||||||||
| 塩竈街道を進み多賀城址に至っています。 | ||||||||||||||
| 多賀城は724年に創建され平安時代まで東北地方の | ||||||||||||||
政治や軍事の中心であったそうです。
明日、7月12日(日)は 【末の松山】25 です。 |
| 6月20日、名取川を渡って仙台に入った。 | |||||||||||||||||||||
| ちょうど5月のあやめを葺く日であった。 | |||||||||||||||||||||
| 宿を探し求めて4~5日滞在した。 | |||||||||||||||||||||
| ここに画工の加右衛門と言う者がいて、 | |||||||||||||||||||||
| 多少風流を解すると聞いて知り合いになった。 | |||||||||||||||||||||
| と奥の細道にあります。 | |||||||||||||||||||||
| 彼の案内で青葉城、東照宮、榴ヶ岡天満宮、 | |||||||||||||||||||||
陸奥国分寺跡などに行っています。
| |||||||||||||||||||||
| 岩沼に入ると直ぐに竹駒神社への道標がありました。 | |||||||||
| 境内は広く、社殿は如何にも歴史がありそうな | |||||||||
| 荘厳さを漂わせていました。 | |||||||||
日本3大稲荷の一つと言われているそうです。
桜より 松は二木を 三月越し
明日、7月10日(金)は 【宮城野】23 です。 |
| 鐙摺・白石城を過ぎ笠島の郡に入る。 | ||||
| 笠島の道祖神前を下馬せずに通ったため、 | ||||
神罰に当たり落馬して死んだと言う、 | ||||
| 西行が 「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて | ||||
| 枯野の薄かたみにぞ見る」 と詠んだ、 | ||||
| 藤原中将実方の塚はどのあたりかと人に問うと、 | ||||
| これより遥か右に見える山際の蓑輪笠島に道祖神の社と | ||||
| 形見のすすきが今もあると教えて呉れた。 | ||||
| 五月雨で道が大変悪く疲れてしまい、よそから眺めてやり過ぎた。 | ||||
と奥の細道にあります。
笠島は いづこさ月の ぬかり道
明日、7月09日(木)は 【岩隈の松】22 です。 |
飯坂温泉は擦上川沿いに旅館が並んでいます。 | ||||||||||||||
| その一角に芭蕉ゆかりの地と言う石碑があり、 | ||||||||||||||
芭蕉は6月18日、ここに泊まったとありました。
明日、7月08日(水)は 【笠島】21 です。 |
佐藤庄司の旧跡は左の山際一里半にあり、鯖野と聞いて | ||||||||||||
| 尋ねて行くと丸山と言う所に庄司の旧館があった。 | ||||||||||||
| かたわらの古寺(医王寺)に一家の石碑がる。 | ||||||||||||
| 中でも二人の嫁の墓は哀れであった。 | ||||||||||||
と 奥の細道に記されています。
笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟
明日、7月07日(火)は 【飯坂】20 です。 |
翌日伝説のしのぶもじ摺りの石を尋ねて、 | ||||||||
| 信夫の里へ,行った。 | ||||||||
文智擦観音山門にある芭蕉像です。
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| 等窮の庵から約5里、檜皮の宿を離れると安積山がある。 | ||||||||
この辺り沼が多く、かつみ刈る頃なのでどの草が花かつみと | ||||||||
| 言うのか尋ねたが知る人はいない。 | ||||||||
| 尋ね歩いて日は山の端にかかってしまった。 | ||||||||
二本松より右に行き、黒塚の岩屋を一見して福島に泊まった。 | ||||||||
と 奥の細道に記されています。
明日、7月05日(日)は 【信夫の里】18 です。 |
可伸庵跡から10分程歩くと、古来須賀川の総鎮守として |
崇拝されていたと言う、神炊舘神社(諏訪神社)がありました。 |
曽良の随行記によると6月15日に、参詣しています。 |
鳥居をくぐると、神水が湧き出しています。収穫の時、 |
新米を炊き神に感謝したと言う故事があるとの事です。 |
歴史の有りそうな厳かな石灯籠の列は見事でした。
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| 近くに相良等窮の墓のある長松院があり、 |
| 本堂前に等窮の句碑がありました。 |

相良等窮の先祖は秀吉と戦ったと言う、城持ちの武将で、 | |||
| 等窮は須賀川宿で問屋を営み駅長の要職にあったとの事。 | |||
一族の墓は一際目立つものでした。
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| 奥の細道には | ||||||||||||||||
白河の関を越えて行くうちに阿武隈川を渡る。 | ||||||||||||||||
| 左に磐梯山が高く、右に岩城・相馬・三春の庄があり | ||||||||||||||||
| 常陸・下野の地との境に山が連なっている。 | ||||||||||||||||
以前から親交のあった等窮と言う者を尋ねたとあります。 | ||||||||||||||||
等窮宅跡と可伸庵跡は須賀川のNTTになっていました。
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奥州街道はやがて下野と陸奥の県境である峠に | |||||||||||||||||||
差し掛かります。 ここに境の明神があります。 | |||||||||||||||||||
社は下野(栃木県側)と陸奥(福島県側)にあります。
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| 芭蕉達は6月7日、奥州街道を進み、 | ||||||||||||||||||||||||||
芦野氏3900石の城下町に入ります。 | ||||||||||||||||||||||||||
城下の外れに竹林があり、質素な墓が並んでいます。 | ||||||||||||||||||||||||||
これが芦野氏旧墳墓です。
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| 那須温泉湯元にある殺生石への途中に常念寺があります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ここに芭蕉の句碑がありました。是より殺生石に行く。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
館代より馬にて送られる。この口付きのおのこ、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
短冊得させよと乞う。やさしき事を望み侍るものかなと 野を横に 馬牽き向けよ ほとゝぎす
九尾の狐の怨霊が石になったと言う伝説があります。
明日、6月30日(火)は 【芦野】13 です。
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| 裏山を登ると黒羽城址公園です。 | |||||||||||||||||||||||||||
ここから黒羽が一望でした。
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芭蕉達は黒羽に5月21日に到着しました。 | ||||
黒羽の館代浄坊寺何某の家を訪ねた。 | ||||
| 思い掛けない訪問で主人は喜び毎日毎夜語り続けて | ||||
| その弟の翠桃は朝夕欠かさず来て自分の家にも伴って、 | ||||
親族の屋敷にも招かれた。
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| 黒羽滞在中、 |
芭蕉達は周辺の名所旧跡を数々訪ねています。 |
大雄寺は黒羽藩主大関家の菩提寺です。 |
山門・本堂等々総茅葺きで当時の風情が残っています。
近くに芭蕉の館があり、芭蕉と曽良の像がありました。
明日、6月28日(日)は 【黒羽-2】11 です。 |
芭蕉達は滝見物の後、 | |||||||||||||||||||||||||||||||
大谷川沿いの慈雲寺に寄っています。
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| 芭蕉達は5月19日、昼頃日光へ到着しています。 |
当時は家康の霊廟があるだけで、一般に公開されず、 |
江戸浅草にあった清水寺の紹介状で参拝しています。 |
丁度、東照宮は大修復工事の最中で見物はかなり |
| 制限されていて、芭蕉達は散々待たされてしまったそうです。 |
そう言う訳か、奥の細道では東照宮については触れていません。
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あらたふと 青葉若葉の 日の光 | ||||||||||||||
この句は翌日、裏見の滝へ行く途中で詠まれています。
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曽良の随行日記には 「壬生ヨリ楡木ヘ二リミフヨリ半道 | ||||||||||||||||
| ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有」 | ||||||||||||||||
| と記されています。その通り、日光へ向かう途中の | ||||||||||||||||
| 畑の中に金売吉次の墓がありました。 | ||||||||||||||||
吉次とは源九郎義経を鞍馬山から連れだして | ||||||||||||||||
| 藤原秀衡の元に送り届けた豪商と言われています。 | ||||||||||||||||
義経が平家を壇ノ浦で破った後、頼朝公と不仲になり、 | ||||||||||||||||
| 奥州平泉へ逃れようと吉次は義経のお供をして | ||||||||||||||||
来ましたが、病に倒れ、ここで生涯を終えたそうです。
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| 芭蕉達は日光街道を進み鹿沼の手前の | |||||||||
| 大神神社に5月18日参詣しています。 | |||||||||
富士浅間神社と同じ御神体で室の八島の歌枕には | |||||||||
| 煙を詠う謂れが有ると芭蕉は室の八島の由来を | |||||||||
同行曽良の話として書いています。
明日、6月24日(水)は 【金売吉次の墓・日光杉並木】07 です。 |
| 奥の細道では草加に泊まっていますが、曽良の | |||||||||
| 随行日記によると次の粕壁(春日部)に泊まっています。 | |||||||||
泊まった場所については江戸時代創建の東陽寺説と | |||||||||
| 鎌倉中期創建の小渕山観音院説があります。 | |||||||||
東陽寺には山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」とあり、 | |||||||||
境内に曽良随行日記の一節「廿七日夜カスカベニ泊ル | |||||||||
| 江戸ヨリ九里余」と刻まれた真新しい石碑があり、 | |||||||||
山門・本堂等々全てが新しく、奥の細道を宣伝材料に | |||||||||
しているなあ!と 思いました。
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元禄二年、1689年5月16日、芭蕉・曽良・親しい人達は | |||||||||||
| 日の出と共に隅田川を舟でおよそ10km北上して、 | |||||||||||
| 日光街道の千住大橋に上陸しています。 | |||||||||||
橋の手前には平安時代創建の素盞雄神社があります。
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| 1672年、29歳のとき、若き桃青は俳諧師になるべく、 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 伊賀上野から江戸の中心、小田原町(中央区)へ | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 移住します。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 写真は隅田川を眺めている若き芭蕉像です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 既に江戸でも俳諧師としての才能を評価されていましたが、 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| それだけでは儘ならず神田上水工事にも携わって | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 生活していたそうです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
俳諧師として見通しが持てたのは32歳頃の様です。
明日、6月20日(土)は 【千住】03 です。 |
奥の細道を辿る旅
前 編 ( 深 川 ⇒ 尿前の関 )
【 はしがき 】
| 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり・・・」 で始まる | |||||
| 芭蕉の「奥の細道」は先人の文芸の歴史(歌枕)を辿る旅で、 | |||||
| 千住の 「行くはるや・・・」 で始まり、大垣の 「・・・行く秋ぞ」 で終ります。 | |||||
| 「奥の細道」 には曽良の句を含めて約60の句があります。 | |||||
| 全てその場で創作された句ばかりで無く、 | |||||
| 旅後の 「奥の細道」 編集時に挿入された句も多くあった様です。 | |||||
| 元禄2年(1689年)の芭蕉と同じ場所に立って、当時から現在への | |||||
| 歴史の経過が見たくて2003年7月22日 奥の細道を辿る旅に出ました。 | |||||
| 奥の細道を何度も読み返し、自分勝手な想像を廻らしています。 | |||||
| あまり詳細に突っ込まないで下さい。 | |||||
尚、日付は全て陰暦から陽暦に直してあります。
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『日本の旅』関東編 を長期間に亘り、
御高覧戴き有難う御座いました。
今年は信越・北陸・中部編で、8月23日に出発します。
旅行記を10月1日からUPの予定です。
引き続き宜しくお願いします。
明後日、6月18日(木)~8月中旬の予定で
2003年に実施した『奥の細道を辿る旅』の旅行記をUPします。
引き続きお楽しみ下さい。
ではでは・・・
後藤さんの陶房です。
| 記念に戴いた後藤さんの作品二点です。 | |||||||||||||||
大事にさせて戴きます。
【あとがき】
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お台場を散策、自由の女神像です。
| 天野屋利兵衛は、 | ||||||||||||
| 赤穂の浅野家に出入りする商人でした。 | ||||||||||||
| 仇討ち計画をうちあけられ、大量の武器を | ||||||||||||
| 調達したと言われています。 | ||||||||||||
| 一介の商人が大量の武 器を注文するなど | ||||||||||||
| おかしいと、役人に捕らえられて拷問を受ける。 | ||||||||||||
| それでも利兵衛はひるむことなく大見得を切ったそうです。 | ||||||||||||
| 「天野屋利兵衛は男でござる」 | ||||||||||||
芝居や講談で有名な一場面です。
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| 地下鉄で築地駅⇒東銀座駅⇒新橋駅へ | ||||||||||||
| 徒歩15分で田村右京太夫屋敷跡です。 | ||||||||||||
| ここで浅野内匠頭が自刃しました。 | ||||||||||||
| 日比谷通りに浅野内匠頭終焉の地の | ||||||||||||
石碑がある筈でしたが道路工事で移動していました。
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| 露天風呂を満喫、途中の道沿いで | ||||||||||||||
| お土産の葡萄を買って帰路に着きました。 | ||||||||||||||
| 一宮御坂ICから中央自動車道・首都高速を経て | ||||||||||||||
| 千住新橋ICで下りて165km走行、 | ||||||||||||||
千住の実家にPM.4予定通り到着しました。 本日の走行距離 232.5km
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