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  • ◆『日本の旅』 北海道編

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2009年11月12日 (木)

【蒲田川共同露天風呂】022

シャトルバスで平湯温泉へ、天気が良くて勿体無いので
栃尾温泉にある蒲田川の河原の共同露天風呂に行きました。

童心に帰って暫く川遊び、楽しい時間が過ぎました。

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共同露天風呂です。河原を吹き抜ける

微風が心地良くて、極楽、極楽でした。

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次の11月14日(土)は

【平湯キャンプ場】023 です。

2009年11月10日 (火)

【上高地散策-3】021

梓川越しの穂高連峰と明神岳です。
梓川は大正池から流れ出す清流で、
⇒犀川⇒千曲川⇒信濃川となって日本海に

流れています。

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梓川沿いに2km程でウエストンレリーフに出ます。

日本アルプスを世界に紹介した宣教師です。

Sht074

更に1kmで河童橋です。
この橋は上高地の象徴で何時も人、人、人です。

河童橋から上高地バスターミナルへは約300mでした。

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次の11月12日(木)は

【蒲田川、共同露天風呂】022 です。

2009年11月 8日 (日)

【上高地散策-2】020 

大正池沿いに700mで中千丈沢の押し出しです。
現在も土砂が流入しているので、
池は噴火時の1/10になっているそうです。

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田代湿原越しの穂高連峰です。

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隣の田代池です。

大正池と共に焼岳の噴火で流失した溶岩で
できたとありました。

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次の11月10日(火)は

【上高地散策-3】021 です。

2009年11月 6日 (金)

【上高地散策-1】019

シャトルバスで一旦平湯温泉バスターミナルに戻り、
乗り換えて再びシャトルバスで上高地に向かいました。
昔は安房峠越しが大変で1時間以上掛かりましたが、

安房トンネルの開通で20分で上高地到着です。

AM.10:30
上高地の入り口、大正池ホテルに到着、
早速、上高地散策スタートです。
今日も又天気は上々心うきうきです。

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大正池と焼岳・大正池と穂高連峰です。
大正4年、焼岳噴火で梓川が堰き止められて
出来た池で以前は水没して立ち枯れた木々がありましたが

現在は1本も見当たらなくなってしまいました。

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次の11月08日(日)は

【上高地散策-2】020 です。 

2009年11月 4日 (水)

【乗鞍畳平の高山植物】018

一周後バスターミナルの食堂で天麩羅蕎麦定食の朝食、
朝食を食べたその場所で熊が射殺されました。
熊と遭遇していた可能性がありました。旅前に発生していたら、
一人でのんびりと、畳平の散策は出来なかったかも・・・
畳平の高山植物です。

ハクサンイチゲ
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オンタデ
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イワツメグサ
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イワギキョウ
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次の11月06日(金)は

【上高地散策-1】019 です。

2009年11月 2日 (月)

【乗鞍畳平散策】017

富士見峠を下山、畳平のお花畑の散策をしました。
木道が敷かれた散策路は一周30分程でした。
帰宅二週間後の9月19日、ここに熊が出没、
9名が襲われ、数名の重傷者が出たとの事、
最後に熊が射殺されたレストランまでの足跡を見て、
そこで食事をしていたので、鳥肌が立ちました。

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次の11月04日(水)は

【乗鞍畳平の高山植物】018 です。   

2009年10月31日 (土)

【乗鞍富士見峠の日の出】016

平湯温泉AM.3:30発のシャトルバスで乗鞍岳畳平へ、

約60分で、日の出前に富士見岳(2818m)に登頂です。

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畳平の気温が4℃だったので、風の強い頂上での
体感温度は0℃以下にも感じる程でした。
隣の御夫婦と岩陰で震えながら日の出を待つ様子です。

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丁度その時、暗雲が立ち込めていて、
いい日の出の状況は撮影出来ませんでした。
残念でしたが自然が相手なので仕方ありません。

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次の11月02日(月)は

【畳平散策】017 です。

2009年10月29日 (木)

【ひらゆの森・平湯キャンプ場】015

キャンプ場の隣にひらゆの森がありました。

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内湯の他には露天風呂が男湯6槽もあり、
森の中の露天風呂三昧 でした。
登山の汗を流して、露天風呂にゆっくり浸り、

1日の疲労を回復させました。

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平湯キャンプ場です。¥2100.也。
好天が続きそうなので、スケジュールを変更します。

翌早朝に乗鞍畳平に行き、日の出を見る事にしました。

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次の10月31日(土)は

【乗鞍富士見峠の日の出】016 です。

2009年10月27日 (火)

【平湯温泉・平湯大滝】014

平湯温泉への途中の水場です。
冷水で咽を潤し、ペットボトルに給水して
平湯キャンプ場へ向いました。
キャンプ場の場所を確保して、

未だ日が高いので、平湯大滝と平湯の森に出掛けました。

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キャンプ場から約1kmで平湯大滝です。

幅6m、落差64mの思ったより豪快な滝でした。

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次の10月29日(木)は

【ひらゆの森・平湯キャンプ場】015 です。 

2009年10月25日 (日)

【西穂高岳登山-5(丸山展望)】013

慎重に岩場を登下りして、独標を経て
丸山まで戻ると遠くに富士山が見えていました。

富士山を見ると不思議と心が和みます。

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眼前にそそり立つ、奥穂高と笠が岳を眺め乍大休止、

景色を堪能して下山しました。

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次の10月27日(火)は

【平湯温泉・平湯大滝】014 です。

2009年10月23日 (金)

【西穂高岳登山-4(ピラミッドピーク)】012

独標からの穂高連峰の縦走路です。
手前がピラミットピーク、

その次が西穂高岳(2908m)です。

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独標からの下りは厳しい岩場の連続です。
注意深く慎重に下ると次は岩の痩せ尾根が続きます。
やっとの思いでピラミットピークに到着、
体力と帰路の時間を考えて、西穂高岳の

登頂を断念して下山する事にしました。

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次の10月25日(日)は

【西穂高岳登山-5(丸山展望)】013 です。

2009年10月21日 (水)

【西穂高岳登山-3(独標)】011

山荘から約20分の直登で丸山です。
高度を上げると西穂独標・ピラミットピーク・

西穂高岳の全容が見えて来ます。

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丸山(2452m)頂上からの展望です。

焼岳(2455m)の麓に上高地が望遠出来ます。

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奥穂高岳のジャンダルムが目の前に展開します。

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西穂独標へは大斜面の急な登りが続き、

最後の岩場を攀じ登ります。

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西穂高岳独標(2701m)です。

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次の10月23日(金)は

【西穂高岳登山-4(ピラミッドピーク)】012 です。

2009年10月19日 (月)

【西穂高岳登山-2(高山植物)】010

西穂山荘近くの高山植物です。

         ≪ハクサンフウロ≫

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         ≪ミヤマシシウド≫

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        ≪サラシナショウマ≫

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          ≪ヤチトリカブト≫

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次の10月21日(水)は

【西穂高岳登山-3(独標)】011 です。

2009年10月17日 (土)

【西穂高岳登山-1】009

AM.7:30登山者名簿に届けて、

愈々登山開始、目指すは西穂高岳です。

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一番高い山が西穂高岳(2905m)、
右端のピークが西穂高岳独標(2701m)です。
西穂高岳独標⇒西穂高岳間には

13のピークがあるそうです。

Sht034

最初はなだらかな木道で始まりますが、
やがて急な登りの樹林帯の中を90分黙々と登ります。

西穂山荘(2385m)到着です。

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次の10月19日(月)は

【西穂高岳登山-2(高山植物)】010 です。

 

2009年10月15日 (木)

【荒神乃湯・新穂高温泉】

天気予報によると、好天が続きそうなので、

明日は西穂高岳へ登る事にスケジュールを変更です。

乗鞍岳を下山⇒朴の木平バスターミナル
⇒平湯温泉を経て、約55kmで蒲田川の河原にある
共同露天風呂、荒神乃湯です。一汗を流して、
2kmで道の駅、奥飛騨温泉郷上宝です。
夕食は天麩羅定食です。

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10kmで、新穂高ロープウエイの駐車場です。
今夜はここで車中泊です。

翌朝、天気は晴、
駐車場の目の前は笠が岳(2898m)です。

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AM.7始発のロープウエイで終点西穂高口駅へ、
西穂高岳へは、5時間約7kmの本格的な登山です。

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次の10月17日(土)は

【西穂高岳登山-1】009 です。

2009年10月13日 (火)

【乗鞍岳登山-2】

ここから本格的な登山道に成り、

40分で蚕玉岳(2980m)です。

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更に20分で乗鞍岳剣ヶ峰(3026m)です。

Sht026

頂上剣が峰からは360°遮る物の無い展望でした。

眼下には山上湖の権現池を見下ろします。

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直ぐ傍に北アルプスの槍穂高連峰が連なっていました。

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次の10月15日(木)は

【荒神乃湯・新穂高温泉】 008 です。

2009年10月11日 (日)

【乗鞍岳登山-1

350mで、お花畑を通過です。

乗鞍岳の頂上を目指します。

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雪渓の残る池を過ぎると

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コロナ観測所が見えて来ます。

コロナ観測所は今年で閉鎖されるとの事です。

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コロナ観測所を右に分岐すると肩の小屋へ続く道です。

正面左が目指す剣ヶ峰(3026m)です。

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整備された道が2km程続きます。
やがて肩の小屋(2770m)です。

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次の10月13日(火)は

【乗鞍岳登山-2】 007 です。

2009年10月 9日 (金)

【朴の木平バスセンター・乗鞍岳畳平へ】005

自宅を早朝出発した為、
AM.11にはシャトルバスの発着所、
朴の木平に到着です。
好天に恵まれたので、急遽乗鞍岳に

登る事にスケジュール変更をしました。

Sht016

定員最後の一人で中間座席に乗車したので、
シャトルバスからの撮影が出来ました。

乗鞍バスターミナル(畳平)へ向っています。

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終点の畳平(2700m)です。
乗鞍岳(3026m)へは約6km、

2時間40分の行程です。

Sht019

帰宅して旅行記を整理していたら、左の山から熊が駆け下りて

登山者を襲い、9名が怪我をしたとの事、驚きました。

このニュースが旅行前でしたら、

恐らく早朝、独りで散策は出来なかったと思います。

次の10月11日(日)は

【乗鞍岳登山-1】 006 です

2009年10月 7日 (水)

【飛騨大鍾乳洞】004

高山から約20kmで、飛騨大鐘乳洞です。
標高900mの山腹に位置し、観光洞としては

日本一高い場所にある鍾乳洞との事です。

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次の10月09日(金)は

【朴の木平バスセンター・乗鞍畳平へ】 005 です。

 

2009年10月 5日 (月)

【高山-国分寺・桜山八幡宮】003

更に700m程で国分寺です。
高野山真言宗の寺院です。
境内の三重塔と推定樹齢1200年、
幹周10m、高さ37mの大イチョウが有名です。
昔から、のイチョウの葉が落ちれば
雪が降ると言われています。

国指定天然記念物.です。

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駐車場への途中に一際目立つ大きな鳥居がありました。
飛騨で一番巨大な鳥居だそうです。
桜山八幡宮です。創建は古く、

仁徳天皇の時(377年)との事です。

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次の10月07日(水)は

【飛騨大鍾乳洞】 004 です。

 

2009年9月30日 (水)

【高山-中橋・陣屋】002

古い町並みを過ぎ700m程で朱塗りの中橋に出ます。

渡った所が高山陣屋です。

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高山陣屋前に建つ山岡鉄舟の銅像です。
幕臣の山岡鉄舟は、幼少時代を飛騨高山で過ごし、
西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させるなど、

江戸城無血開城の立役者です。

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1692年に徳川幕府が飛騨を直轄領とし
以来177年間に25代の代官・郡代が
江戸から派遣され政務を行いました。

国内に唯一、現存する郡代・代官所です。

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次の10月05日(月)は

【高山-国分寺・桜山八幡宮】 003 です。

2009年9月29日 (火)

【まえがき・高山-朝市・古い町並み】 001

【まえがき】

定年後計画した旅も9年目になりました。
2001年  西国33箇所観音霊場巡礼の旅
2002年  東海道53次の旅   
2003年  奥の細道を辿る旅
2004年  四国88ヶ所遍路の旅
2005年  中山道69次の旅
2006年  北海道編
2007年  東北編
2008年  関東編

2009年  信越・北陸・中部編

2009年は信越・北陸・中部編です。

8/22~9/6 前編の旅を実施、
乗鞍岳剣ヶ峰(3025m)・西穂高岳独標(2701m)
立山、雄山(3003m)・大汝山(3015m)を登頂、
各地の名所旧跡を尋ねて、3,183km走行、帰宅しました。

さあ!御一緒に旅に出掛けてみませんか・・・

【高山-朝市・古い町並み】 001

2009.08.22(土)AM.3:00大津自宅を出発、
名神高速⇒東海北陸自動車道で、
AM.6:00高山到着、不動橋駐車場に駐車して
早速高山市内を徒歩で散策しました。
700mで宮川沿いの朝市です。
早朝の為、客足は疎らでしたが
駐車場への帰りには人で歩けない程混んでいました。

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朝市を通り抜け400m程で古い町並みです。
出格子の連なる軒下には用水が流れ、
町家の大戸や老舗の看板が連なっていました。

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次の9月30日(水)は

【高山-中橋・陣屋】 002 です。
   

旅行記UPのお知らせ

何時も旅行記を御覧戴き感謝です。

2009『日本の旅』信越・北陸・中部編を

10/01から隔日にUPする予定でしたが

急用で10/01(木)~03(金)不在になりますので、

001・002を前倒しで29日(火)、30日(水)にUPします。

今年も宜しくお願いします。

                           雄@大津

2009年9月10日 (木)

無事帰宅

8/22(土)出発、

2009年の『日本の旅』信越・北陸・中部(前編)は

9/6(日)無事帰宅しました。

前半は天気に恵まれ、素晴らしい山歩きが出来ました。

計画通り、10/1(木)から隔日で旅行記をUPします。

御一緒に旅をしましょう!

西穂高独標です。

Nishihodoppyou

上高地、焼岳と大正池です。

Kamikouchiyakedake

乗鞍高原、ゆけむり館の露天風呂です。

Yukemurinoyu

ではでは、又の再会を!

2009年8月21日 (金)

『日本の旅』信越・北陸・中部編

衆議院選挙の不在者投票をして、

明日、8月22日(土)旅立ちです。簡単なスケジュールです。

Fill_ing4

途中、旅便りをUPする予定です。引き続き御覧戴ければ幸いです。

ではでは、行って来ます。

2009年8月20日 (木)

【大垣・あとがき】64

愈々終着地の大垣です。
門人の露通が敦賀の湊まで迎えに来て呉れ、
駅馬に助けられて大垣の庄に入ります。
芭蕉の大垣来訪は3回目で、
門弟に多くの大垣藩士がいたそうです。
曽良も伊勢から来て、越人も馬で如行の家に集まり、
その外親しい人々が日夜来て、死んで生き返った者に

会うみたいに喜び且つ労わって呉れた。 とあります。

Oogaki1

「奥の細道」 最後の句碑です。
蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ

Oogaki4

10月18日、伊勢の遷宮を参拝しようと
水門川から舟で出発します。

Oogaki3

船問屋をやっていた俳友の木因は路通と共に水門川から
揖斐川を下り、伊勢長嶋まで芭蕉と曽良を見送ったそうです。
船中で連句を作って楽しんだ とあります。
深川から2400km、140日間に亘る
「奥の細道」 の旅は此処で終りです。

Oogaki2

【 あとがき 】
「奥の細道」 は元禄二年、1689年春から秋にかけて実践され、
清書し終えたのは元禄七年、1694年初夏と言われています。 
旅の後、芭蕉は5年もの歳月をかけて 「奥の細道」 を完成させています。  
殆どの句は旅の後に創作されたり、編集され挿入されています。
体調を崩しているにしても、どうして曽良は芭蕉と離れて
一人旅をしたのか謎だけが残っています。
曽良の連絡により、露通が敦賀まで迎えに出ていますし、
長島で暫く静養して10月15日芭蕉を迎えに大垣迄出向き、
10月18日舟で一緒に伊勢の遷宮式を拝もうと
大垣を出発して「奥の細道」 は終っています。
一時は120日間も苦楽を共にして来た師弟の関係が崩れてしまうのかと
心配しましたがやれやれでした。芭蕉と曽良は物凄い健脚で1日約40kmも歩いています。
恐らく曽良が同行していなければ 「奥の細道」 は完結出来なかったものと思われます。
「奥の細道」 を辿って、400年後の現在史跡が数多く保存されていて、
江戸時代にタイムスリップ出来ました。歴史好きな小生にとっては実に楽しい旅になりました。  

 最後に長期間に亘り御高覧戴きました多くの方々に心から感謝しつつ筆を置きます。

明後日、8月22日(土)~9月6日(日)まで

『日本の旅』信越・北陸・中部の旅に出ます。

10月01日~旅行記をUPしますので引き続き御覧戴けたら光栄です。

明日、簡単な旅の日程をUPします。

ではでは・・・

 

2009年8月19日 (水)

【敦賀-2】63

白砂青松の海岸で2km程松林が続きます。
現在は敦賀原発で道路は完備されていますが、

当時は交通の手段が無く、ここから船出したそうです。

Turuga5

9月29日、廻船問屋の主人である
天屋五郎右衛門(俳号、玄流)の手配で、
空晴たれば、ますほの小貝拾はんと種の浜に船を走す。
海上七里あり。

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ますほの小貝の色で浜が種々に彩られ、種の浜と呼ばれて
いましたが現在は色ヶ浜と呼ばれています。
当時浜には僅かな海士の家があったそうです
波の間や 小貝にまじる 萩の塵

Tanenohama2

「侘しき法華寺有、ここに、ちゃをのみ、酒をあたためて、
夕暮れの寂しさ、感に堪たり」 と 「奥の細道」 にあります。
寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋

Tanenohama3

本隆寺の句碑です。これは奥の細道にはありません。

衣着て 小貝拾わん いろの月

Turuga11

曽良は天屋を訪ねて芭蕉宛の手紙を託しています。
手紙には出雲屋に1両預けてある事、
敦賀へ路通を出迎えに来させる事が書いてあったそうです。

明日、8月20日(木)は

【大垣・あとがき】64 です。

愈々最終回です。

2009年8月18日 (火)

【敦賀-1】62

芭蕉と等栽は9月26日、
歌枕のあさむずの橋・玉江二の橋を過ぎて湯尾峠を越えます。
峠の茶屋の軒下に下がる庖療除けの杓子がさやかな月明かりに
照らされて浮かび上がったのを見て、その姿をユーモラスに詠んだ
と言われています。

月に名を 包みかねてや いもの神

Turuga1

翌27日の夕暮れに
木の芽峠を越えて、敦賀の出雲屋に宿をとっています。
その夜は月がこうこうと輝いていたので、明日の夜もこうなるだろうか
と尋ねると、明日の夜は予測が付きませと主人に酒を勧められ、
気比神社に夜参拝したとあります。

Konometouge

気比神宮の大鳥居は厳島神社・春日大社と並ぶ
木造日本三鳥居で重要文化財です。

Turuga2

「古例、今にたえず。神前に真砂を荷い給う。
これを遊行の砂持と申侍る」 と亭主のかたりける。
月清し 遊行の持てる 砂の上
翌28日、亭主の詞にたがわず、雨降。

名月や 北国日和 定めなき

Turuga3

明日、8月19日(水)は

【敦賀-2】63 です。

2009年8月17日 (月)

【福井】61

9月24日、福井の等栽(洞哉)と言う旧友を訪ねました。
奥の細道には
「等栽と言う知人がいる。以前江戸で尋ねて来た。
どんなに老いているだろうか、死んでしまったであろうか、
人に尋ねた所、住まいを教えて呉れた。 尋ねると
小家に夕顔や糸瓜が絡まり鶏頭や箒木で戸が隠れていた。
2泊して、敦賀の湊で名月に会おうと等栽と一緒に旅立った。」
とあります。 現在、等栽宅跡は左内公園になっていました。

公園には芭蕉句碑がありました。

名月の 見所問ん 旅寝せん (この句は奥の細道にはありません)

Sanai1_3

左内公園は橋本左内の生家跡で左内像と墓がありました。
幕末の福井藩士、橋本左内は井伊直弼の安政の大獄で
26歳の若さで刑死したとありました。

Sanai2_3

明日8月18日(火)は

【敦賀-1】62 です。

2009年8月16日 (日)

【永平寺】60

芭蕉は
天龍寺に2日間泊まり、一人で永平寺を参詣しています。
永平寺は1244年、道元禅師によって開山された参禅道場で
全国に15000の末寺を持つ名刹です。

Eiheiji1

奥の細道には
「五十丁、山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。
邦機千里を越えて、かかる山陰に、跡を残し給ふも、 
貴き故有とかや。」  とあります。
境内には樹齢600年の老杉が生茂り、幽玄な世界を
造り出しています。

Eiheiji2

明日、8月17日(月)は

【福井】61 です。

2009年8月15日 (土)

【天龍寺】59

芭蕉と北枝は9月22日、松岡にある天龍寺に到着しています。
この寺の住職の大夢和尚はもと江戸品川天龍寺の住職で、

芭蕉とは旧知の間柄であったそうです。

Tenryuji1

金沢の手前から体調を崩した曽良と山中温泉で別れ、
北枝を伴って天龍寺まで来ましたが遠方への旅は侭ならず、
北枝ともここで別れる事になります。
別れの句を扇子に書いて贈っています。

Tenryuji2

天龍寺境内に芭蕉の句碑がありました。

物書いて 扇引きさく なごりかな

Tenryuji3

明日、8月16日(日)は

【永平寺】60 です。

2009年8月14日 (金)

【汐越の松】58

芭蕉と北枝は
越前の吉崎の入り江から舟で汐越の松を尋ねています。
当時は日本海に面した砂丘に数十本の松があり、
風光明媚な場所であったそうです。
現在はゴルフ場の一角に追い遣られ、
枯れた松の倒木が1本横たわっているだけでした。

Shiogosi1

しかしここからの風景は当時と変わらない様で
松越しに広大な日本海がありました。

Shiogosi2

明日、8月15日(土)は

【天龍寺】59 です。

2009年8月13日 (木)

【全昌寺】57

芭蕉と北枝は9月20日、
大聖寺の城主、山口玄蕃頭宗永の菩提寺、

全昌寺に泊まっています。

Daisyouji1

別れた曽良も前夜泊まり、書き残していました。

終宵 秋風聞や うらの山 (曽良)

芭蕉は曽良もこの寺に泊まった事に思いをはせ 
「一夜の隔て千里に同じ」 と述懐しています。

Daisyouji3

今日は越前の国に急ぐので遽しく堂下へ下りる時
若き僧達が紙と硯を抱えて追って来た。
丁度庭の柳の葉が散ったので草鞋ばきの侭書き残した。

庭掃て 出でばや寺に 散柳

Daisyouji2

明日、8月14日(金)は

【汐越の松】58 です。

2009年8月12日 (水)

【那谷寺】56

曽良と別れた芭蕉は北枝と共に
9月18日に那谷寺に参拝して再び小松に戻っています。
那谷寺は717年泰澄大師による開基の真言宗の名刹です。
西国33箇所観音霊場の1番札所の那智と

33番札所の谷汲の頭文字から懐けられたそうです。

Natatera2_2

石山の 石より白し 秋の風

ちょっと一言!
石山寺の石の方が白くて遥かに綺麗です。

Natatera3_2

明日、8月13日(木)は

【全昌寺】57 です。

【那谷寺】56

曽良と別れた芭蕉は北枝と共に
9月18日に那谷寺に参拝して再び小松に戻っています。
那谷寺は717年泰澄大師による開基の真言宗の名刹です。
西国33箇所観音霊場の1番札所の那智と

33番札所の谷汲の頭文字から懐けられたそうです。

Natatera2

石山の 石より白し 秋の風

ちょっと一言!
石山寺の石の方が白くて遥かに綺麗です。

Natatera3

明日、8月13日(木)は

【全昌寺】57 です。

2009年8月11日 (火)

【山中温泉-2】55

奇岩景勝の遊歩道を進むと
草月流家元の勅使河原宏がデザインしたと言う
あやとり橋に出ました。
橋と言うより、S字状の現代アートでした。

Ayatorihashi

更に進むと黒谷橋の袂に
全国の俳句同好会の寄付で建てられた芭蕉堂がありました。
堂の中には陶製の芭蕉像が祀られていました。

Yamanaka5

泉屋甚左衛門の住宅の前に共同浴場の菊の湯がありました。
名前は芭蕉の句から取ったそうです。

山中や 菊はたおらぬ 湯の匂

又菊の湯前の泉屋跡に芭蕉句碑がありました。
恐らく芭蕉もこの菊の湯に入ったと思われます。
小生も芭蕉を思いながら入浴しました。

湯の名残 今宵は肌の 寒からむ

温泉街を見下ろす高台に医王寺がありました。
山中温泉を開湯した行基の創建と伝えられています。
境内には「甘露水」と言う名水が湧き、
宝物館には芭蕉が忘れたと言う杖がありました。

Iouji

明日、8月12日(水)は

【那谷寺】56 です。

2009年8月10日 (月)

【山中温泉-1】54

9月10日小松を発ち、夕方山中温泉に到着、
山中温泉には9月17日まで滞在しています。
1300年程前僧行基に発見されたと言う山の中のいで湯で、
兵庫県の有馬温泉に次ぐ効能を持った温泉と

芭蕉は気に入っていたそうです。

Yamanaka1

ここ泉屋甚左衛門の住宅に8日間滞在しました。
8日間も滞在したのは曽良の病の為と考えられます。

奥の細道に 「曽良は、腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、

先立て行くに と書置きたり。

行き行きて 倒れ伏すとも 萩の腹 (曽良)  

行くものの悲しみ、残るもののうらみ、

せきふのわかれて、雲に迷うがごとし、  予も又とあって

今日よりや 書付消さん 笠の露   で結んでいます。

120日以上苦楽を共にして来たのに別れの記述はこれしかありません。
曽良の随行日記にも全くありません。
又曽良は芭蕉と別れた後、療養先の長島へ直接向かわず、
気比神社や金崎宮に参詣したり、色の浜を見物したりして、
のんびり一人旅を続けています。山中温泉で芭蕉と曽良は何故別れたのか ?
 「奥の細道」 最大の謎です。

山中温泉に沿って流れる大聖寺川の渓流が鶴仙峡です。
川沿いに小径があり、芭蕉も散策したそうです。

Yamanaka4

川沿いの遊歩道を進むと、
車も通れる総檜造りの橋、こおろぎ橋にでました
山中温泉の代表的な景勝地です。

Koorogibashi

明日、8月11日(火)は

【山中温泉-2】55 です。

2009年8月 9日 (日)

【小松】53

芭蕉は金沢に着いた時、かねて会いたかった一笑に連絡しました。
一笑の代わりに来たのが牧童と言う加賀藩御用刀研師の立花彦三郎でした。
その弟の刀研師である北枝が連日来て、芭蕉に弟子入りして
120日間と言う曽良との長い二人旅に割り込み、芭蕉が加賀の領地を離れるまで
恰も監視している様に執拗に付いていました。加賀藩が付けた監視役と言う説もあり、

これが芭蕉隠密説の根拠になっている様です。

9月7日、金沢を出発
芭蕉達(芭蕉・曽良・北枝)はその日の内に小松に着き、
建聖寺や多太神社等に参詣しました。
建聖寺は芭蕉達が小松に入って最初に立ち寄った寺と
言われています。

Komatu4

建聖寺境内には芭蕉塚と句碑が建てられていました。

しをらしき 名や小松吹く 秋薄

Komatu5

多太神社には実盛の兜がありました。
源氏に仕えていた時、義朝から貰ったと言われています。
実盛討死後、義仲によりこの社に収められたそうです。

Komatu1

芭蕉は悲劇の武将に思いを寄せています。
境内に句碑がありました。

むざんやな 甲の下の  きりぎりす

Komatu2

明日、8月10日(月)は

【山中温泉-1】54 です。

2009年8月 8日 (土)

【金沢-2】52

北陸随一の繁華街は香林坊・片町です。
芭蕉の辻はその片町の交差点にありました。

Kanazawa1

芭蕉の辻、東外れに卯辰山がありました。
麓の小坂神社で芭蕉は度々句会を開いたと言われています。
石段の中程に「芭蕉翁巡錫地」の石碑がありました。
兼六園にある あかあかと の芭蕉句碑はここから
移設されたそうです。

Kanazawa7

芭蕉の辻近くの犀川大橋を渡り、犀川沿いに広がる台地が
寺町で60を越えるお寺があります。
その中に曹洞宗の長久寺がありました。

Kanazawa2

長久寺境内に芭蕉句碑がありました。

秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子

Kanazawa3

寺町の願念寺は小杉一笑の菩提寺です。

Kanazawa4

一笑は芭蕉が金沢で会いたかった俳人の一人でしたが、
前年の12月に亡くなっていました。

Kanazawa5

芭蕉滞在中に追善供養がされたそうです。
その時の芭蕉句碑が門前にありました。

塚も動け 我が泣く声は 秋の風

Kanazawa6

明日、8月09日(日)は

【小松】53 です。

2009年8月 7日 (金)

【金沢-1】51

芭蕉達は8月29日、金沢に到着しました。

加賀百万石の城下町です。

Kanazawa9

1583年、前田利家が入城して以来現存している
重要文化財の石川門です。
会うのを楽しみにしていた一笑は去年の冬に若死にしたと言う。
曽良は暑さと長旅の疲れで体調を崩したが、
芭蕉は頗る元気で、充実した日々を過ごしたそうです。

Kanazawa12

金沢城の前にある石川橋を渡ると
日本三名園の兼六園です。
琵琶湖に似せて造ったと言う霞ヶ池のことじ灯篭
このアングルが兼六園のシンボルと言われています。

Kanazawa10

霞ヶ池を過ぎ、東端の山崎山の登り口に句碑がありました。

あかあかと 日は難面も 秋の風

Kanazawa11

明日、8月08日(土)は

【金沢-2】52 です。

2009年8月 6日 (木)

【那古】50

8月27日、市振を発った芭蕉達は
黒部川・片貝川・早月川・常願寺川・神通川・庄川等々
数多くの川を渡って那古の浦(新湊付近)に到着します。

那古の浦にある放生津八幡宮の境内には句碑がありました。

わせの香や 分入右は 有磯海

Nagonoura1

有磯海(富山湾)の雨晴海岸です。
芭蕉は氷見の藤の花を見ようとしたが泊まる所が無いと
言われ断念して、高岡から倶利伽羅峠を越えて
金沢に向かう事にしました。

Arisoumi1

倶利伽羅峠への登り口に護国八幡宮がありました。
木曽義仲はここで戦勝祈願しています。
芭蕉も参拝して峠越えに向かったそうです。

Kurikara1

峠頂上にある平維盛の本陣跡です。
4万の義仲軍が10万の維盛軍を破った古戦場です。
近くに江戸時代に建てられたと言う芭蕉句碑がありました。
(奥の細道にはありません)

義仲の 寝覚めの山か 月かなし

Kurikara2

義仲が夜陰に乗じて牛の角に松明をくくり付けて放つと
不意を突かれた平家軍は大混乱になり、
谷底へ落ちていったと言う。
平家物語にも合戦の様子が書かれているそうです。

Kurikara3

明日、8月07日(金)は

【金沢-1】51 です。

2009年8月 5日 (水)

【市振】49

親不知を過ぎると市振の宿場で街道の松が迎えてくれました。

Ichifuri1

宿場の中程に
芭蕉達が遊女と泊まり合わせた桔梗屋跡がありました。

奥の細道には 
「 親知らず、子知らず、犬もどり、駒返しなど云う、
北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに
間隔てて面の方に、若き女の声、二人ばかりと聞ゆ 」 
とあります。

Ichifuri3

宿場の長円寺にはこの句碑がありました。

一家に 遊女も寝たり 萩の月

Ichifuri4

明日、8月06日(木)は

【那古】50 です。

2009年8月 4日 (火)

【親不知】48

途中北国一の難所である親不知があり、
国道八号線の難所の改修記念として造られた

親不知記念広場には母子像がありました。

Oyasirazu2

その広場から旧街道の難所だった絶景が展望出来ます。
旅人は断崖の下の波間を縫う様に歩いたそうです。
親不知とは 
親が子を、子が親を庇っていられない事から名付けられた
と言われています。

Oyasirazu1

明日、8月5日(水)は

【市振】49 です。

2009年8月 3日 (月)

【直江津】47

直江津の関川河口にある琴平神社に

その夜の句会での発句の句碑がありました

文月や 六日も常の 夜には似ず

しかし芭蕉達がこの琴平神社に参詣したかは定かではありません。

Kotohira Naoetu2

琴平神社の直ぐ傍に安寿と厨子王の供養塔がありました。
ここで母親は佐渡へ、姉弟は丹後の山椒太夫のもとへ
売られてしまいます。後に厨子王は関白師実に見出され、
国司となり、母を探しに佐渡に渡ります。
安寿恋しや ほうやれほ  厨子王恋しや ほうやれほ 
とつぶやきながら、鳥を追う盲目となった母親に出会います。

私は鴎外の『山椒太夫』を読んだ事はありませんが、
この物語は良く知っていました。戦時中私が4~5歳の頃、
母方の祖母が深川にいて、時々千住の我が家へ
お土産を入れた大きな風呂敷持参で泊り掛けで来て、
そんな夜必ず祖母が一緒に寝てくれて、
安寿と厨子王の話をして呉れました。
何度も同じ話をして貰ったので全てを空暗記してしまう程でした。
これが私の人生で最も古い記憶です。
自分が高齢者になり、最近忘れていた幼き頃を思い出しました。
皆さん、一度自分の幼き頃の記憶を辿って見て下さい。
いいものですよ!・・・

Anju

芭蕉達は8月25日直江津に戻り
1562年上杉謙信によって再建された五智国分寺に
参詣して市振に向かいました。

Gochikokubunji

明日、8月04日(火)は

【親不知】48 です。

2009年8月 2日 (日)

【出雲崎】46

出雲崎は
佐渡からの金を荷揚げする港として栄えた宿場町でした。

町の中心地の生家橘屋の跡に良寛堂が建っていました。

Izumozaki1

芭蕉が出雲崎を訪れた70年後に良寛は生まれています。
良寛堂を背に母親の生まれ故郷の佐渡を眺めている
良寛像がありました。

Izumozaki2

出雲崎の裏山の頂上に夕日の丘公園がありました。
公園からの眺望は県内一とありました。肉眼では薄っすらと
佐渡島が見えていたのですが、写真では駄目で
何も見えませんでした。

Izumozaki5

公園には良寛と子供達が遊んでいる像がありました。

Izumozaki3

翌19日、柏崎に着き、象潟の能登屋で会った低耳からの紹介状を持って
大庄屋の天屋弥惣兵衛家を訪ねて宿を乞うたが、
不快になって出て来てしまいます。家人が引き止めようと追って来ましたが
撥ねつけ、雨の中を疲れ果てて米山峠を越えて、鉢崎の俵屋六郎兵衛宅に宿泊、
翌日昼頃晴れたので出発して夕方今町(直江津)に到着しました。
低耳は今町の聴信寺眠鴎宛の紹介状も書いていました。
早速聴信寺を訪ねると忌中だとすげない扱いをされ取って返すと、
江戸での芭蕉の名声を知っている者がいて、再三再四呼び戻しにまし来た。
雨が強くなったので、その夜は古川市左衛門宅に宿泊したそうです。
紹介者の低耳はそれ程信用のおける人物でなかった様です。

明日、8月03日(月)は

【直江津】47 です。

2009年8月 1日 (土)

【越後路-2】45

奥の細道では9日間、越後路を旅していますが
曽良の随行日記によると14日間旅をした事になっています。
8月18日、芭蕉達は寺泊、野積の西生寺を訪ねました。
即身仏の弘智法印のミイラを拝んだそうす。

Saishouji

西生寺から佐渡島がよく見えました。
肉眼では望遠出来るのですが写真には写っていませんでした。
知人が望遠レンズで撮影した佐渡島です。
芭蕉達もこの光景を見ている筈です。

Sado

8月18日夕方、芭蕉達は出雲崎の大崎屋に宿泊しています。
この大崎屋跡の向かいに芭蕉園と言う公園があり
芭蕉像と句碑がありました。

Oosakiya

荒海や 佐渡によこたふ 天河

奥の細道、最高傑作の句と言われています。
ここ出雲崎で作られ、直江津の句会で発表されたそうです。
この句からは雄大な情景が見えて来ます。
しかし芭蕉はこの情景は見ていなかった様です。

この時期の日本海は穏やかで荒海にはならず、
天の川は佐渡にはかからず、出雲崎の真上にあるそうです。
更に曽良の随行日記によると出雲崎から直江津まで雨で
星空どころか佐渡島も見えなかった様です。

Izumozaki4

明日、8月02日(日)は

【出雲崎】46 です。

2009年7月31日 (金)

【越後路-1】44

8月3日早朝、鳥海山の全容を眺めて酒田へ向い、
不玉宅に宿泊して、8月10日、酒田を発ち、

翌11日に温泉で有名な温海に到着しています。

Atumi1

その後、
奥州出羽国(山形県)と越後国(新潟県)の国境にある
念珠ヶ関を越え北国街道を南下しています。
曽良の随行日記によると
北越では芭蕉の名は知られていなかった様で
芭蕉への対応も冷淡で宿を断られたりしたそうです。

Nezumigaseki1

北国街道を南下すると、弥彦神社に出ます。
奥の細道には
「越後に入り、村上に三日間滞在、
8月17日に弥彦に宿をとり弥彦神社に参詣した」
とあります。

Yahiko1

本殿には 「天香山の命」 を祀るとありました。
神社の裏手にあるロープウエイで弥彦山に登ると
佐渡島が見えるそうですが、生憎の天気で中止としました。

Yahiko2

明日、8月01日(土)は

【越後路-2】45 です。

2009年7月30日 (木)

【象潟-2】43

能登屋から10分程歩くと、かつては象潟橋と呼ばれていた
朱塗りの欄干橋に出ます。
現在は閑静な住宅地になっていて何も見えませんが、
当時は九十九島越に鳥海山が望め、素晴らしい景観
だったそうです。

芭蕉達は何度もここまで来て眺めていたと言われています。

Kisakata4

この橋の袂に舟つなぎ石がありました。
芭蕉達もここから舟に乗って島巡りをしたと記されていました。

Kisakata5

芭蕉の時代、象潟の九十九島、八十八潟の景勝は
松島と並び称されていたそうです。
1804年6月4日の大地震で地面が隆起して水が枯れ、
現在は田圃となり、その中に点在する丘が当時の面影を
残しています。
「入江の縦横は一里ばかり、その面影は松島に似ているが
異なる点は松島は笑うみたいで、象潟は怨むみたいである。
寂しさに悲しみを加えて、その様子は魂を悩ます。」
と芭蕉は記しています。

Kisakata6

蚶満寺のある島の周囲には絶えず波が寄せ、
芭蕉達は山門前に舟を横付けして参詣したそうです。

Kisakata7

山門の前に池があり、ネムの木が植えられ、
傍に芭蕉像と句碑がありました。

象潟や 雨に西施が ねぶの花

西施とは中国越の美人で、
美人の代名詞として使われていたそうです。

芭蕉と曽良は象潟で以下三句を詠んでいます。

汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し
象潟や 料理何くふ 神祭り  (曽良)
波こえぬ 契りありてや みさごの巣   (曽良)

Kisakata8

明日、7月31日(金)は

【越後路-1】44 です。

2009年7月29日 (水)

【象潟-1】42

芭蕉達は昼頃象潟に到着、
能登屋の主人の佐々木孫左衛門を尋ねました。
丁度熊野権現の祭礼で混んでいて、
向い側の佐々木右衛門方を紹介されてその日は泊まり

翌日8月2日は能登屋に泊っています。

能登屋孫左衛門の子孫と言う品のいいお婆ちゃんが玄関先を掃除していて
先祖の事を詳しく話して呉れました。能登屋孫左衛門も俳人だったそうです。
両方の家には合歓の木があり、これは市が植えて呉れたそうです。
この能登屋で美濃の行商人で低耳と言う俳号を持つ宮部弥三郎と知り合います。
彼は出雲崎や柏崎の俳人と交流があり、芭蕉に宿の紹介状を書いています。

あまの屋や 戸板を敷きて 夕涼み (低耳)

Kisakata2

Kisakata3

明日、7月30日(木)は

【象潟-2】43 です。

2009年7月28日 (火)

【酒田-2】41

酒田港を見下ろす日和山公園の池には
当時の1/2の千石船浮かんでいて、
酒田に来た文人の文学碑が広い園内に沢山ありました。

Sakata5

芭蕉像と句碑もありました。

暑き日を 海に入れたり 最上川

Sakata8

7月31日、芭蕉達は雨の中を象潟へ出発しました
奥の細道に
「山を越え、磯をつたひ、いさごを踏みて、其祭十里、
日影ややかたふく比、真砂を吹き上げ、雨朦朧として、
鳥海の山かくる」
とある様に難渋して、その晩は吹浦の船小屋に泊まりました。

Fukuura1

芭蕉達は難所の三崎峠を越えて翌日に象潟に到着しました。

Kisakata1

吹浦海岸には象潟から酒田へ戻る途中で詠んだ
句碑がありました。
其朝天能晴れて、

あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ

Fukuura2

明日、7月29日(水)は

【象潟-1】42 です。

 

2009年7月27日 (月)

【酒田-1】40

7月26日、芭蕉達は馬で羽黒を出発して、
鶴岡藩に到着しています。
藩校致道館は九代藩士の酒井忠徳が風土を刷新して
藩政の振興を図ろうと1805年に創設されたそうです。

Turuoka2

鶴岡藩士で江戸にいた時、旧知の長山重行宅に到着、芭蕉は体調を崩し、
夕食に粥を所望して、粥と特産の茄子を食したそうです。
その夜句会を開いた時の発句です。 
この句は奥の細道にはありませんが、鶴岡市内の各地に句碑がありました。

めずらしや  山をいで羽の  初茄子

奥の細道には 
「川舟に乗て、酒田のみなとに下る。
淵庵不玉と云、医師の許を宿とす」 とあります。
ここから舟で酒田へ向かいました。

Turuoka1

不玉宅には象潟行きの前後9日間逗留しています。
不玉は本名、伊藤玄順といい、淵庵と言う医者を
家業としていたそうです。

Sakata4

近くに酒田、三十六衆の筆頭格の回船問屋の
鐙屋(国指定史跡)が保存されていました。
この鐙屋は井原西鶴の「日本永代蔵」に登場する
と記されていました。

Sakata3

当時は西の堺、東の酒田と呼ばれる程繁栄していました。
近くに本間家旧本邸と本間美術館がありました。
本間家旧本邸は二千石旗本屋敷の格式を備えた邸宅で
酒田の発展につくした豪商の本間光丘が巡見使御宿として
1768年に新築、庄内藩主酒井家に献上した建物で
1945年春まで本間家の本邸として使用されていたそうです。

Sakata2

本間美術館は本間家の別荘を改築したものです。
丁度去年歩いた広重の東海道53次の特別展示中で
懐かしく鑑賞しました。

Sakata1

明日、7月28日(火)は

【酒田-2】41 です。

2009年7月26日 (日)

【出羽三山-3(湯殿山)】39

芭蕉達は月山から湯殿山へ尾根伝いに縦走していますが
車の為、山を迂回して湯殿山に着きました。
鳥居をくぐると写真撮影は厳禁です。
社殿は無く湯を湧き出す赤い巨岩を御神体としていて、
湯口は裸の女性が立膝をしている形で性器崇拝の
名残だそうです。女陰から湯が湧くので御神体について
一切他言してはならず、「語る無かれ」 「聞く無かれ」 と
戒められている神秘の領域で、修行した修験者が

ここで仏の境地に至ると言われていたそうです。

参道に句碑がありました。

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな 

湯殿山 銭ふむ道の 泪かな (曽良)

Yudonosan1

Yudonosan2

明日、7月27日(月)は

【酒田-1】40 です。

2009年7月25日 (土)

【出羽三山-2(羽黒山)】38

月山を下山、羽黒山に登りました。山門をくぐり、
急勾配の石段を下ると国宝の五重塔が有りました。

芭蕉達も見たと思うとひとしおでした。

Hagurosan1

奥の細道には
「7月19日、羽黒山に登った。別当代会覚阿闍梨に謁す。
南谷の別院に舎して、憐みんの情、こまやかに、あるじせらる。」
とあります。  この南谷に芭蕉達は6泊しています。

五重塔を過ぎると一の坂、二の坂、三の坂と
羽黒山の頂上まで2446段の石段がつづきます。
月山登山後の疲労困憊の体に、この石段はもう体力の
限界で厳しいものでした。
つくづく芭蕉達は健脚だったんだなあ!・・・ と思った次第です。

Hagurosan2

二の坂を登って、右の山道を500m程進むと
羽黒山の別当代、会覚阿闍梨の厚意で
芭蕉が宿泊した南谷別院跡がありました。
現在は古い池と礎石だけが残っていました。

Hagurosan3

庭の片隅に句碑がありました。

有難や 雪をかほらす 南谷

Hagurosan4

三の坂を登り詰めると
やっと羽黒山頂上で、出羽神社の大社殿がありました。

Hagurosan5

近くに芭蕉像と芭蕉三山句碑がありました。
羽黒山から月山、湯殿山を往復して南谷の別院に戻った
芭蕉が会覚に出羽三山巡礼の印象を聞かれて
短冊に書いた三句です。

涼しさや ほの三か月の 羽黒山
雲の峯 幾つ崩れて 月の山

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな

Hagurosan6

明日、7月26日(日)は

【出羽三山-3(湯殿山)】39 です。

2009年7月24日 (金)

【出羽三山(月山)】37

芭蕉達と同じ道を辿り、羽黒山に着きました。
今夜は羽黒山キャンプ場に泊まる事にしました。
夜中目覚めると満点の星空、あまりにも星の数が多くて
星座が解らなくなってしまう程でした。
芭蕉は羽黒山に参拝して月山に登っていますが

急遽月山を先に登る事にしました。

Gassan1

月山は現在車で約1時間で八合目まで登れます。
八合目の弥陀ヶ原は湿原で所々にお花畑があり、
ニッコウキスゲや黒ユリが咲いていました。

Gassan2

弥陀ヶ原を過ぎると本格的な登山道になります。
ごろごろと石が転がっていて実に歩き難い登山道ですが、
足元には雪渓が広がり、遠くに鳥海山、
手前に朝日連邦が望め素晴らしい景色でした。

Gassan3

2つのピークを越してやっとの思いで九合目に到着したのは
歩き出して2時間後でした。
九合目の小屋近くには沢山の遭難者慰霊碑がありました。

Gassan4

更に30分急登して頂上(1979m)に到着しました。
太めの澤田さん、最初で最後の登場です。

雲の峯 幾つ崩れて 月の山

Gassan5

頂上には月山神社があり、神主も常駐していました。
芭蕉達は山頂の山小屋に泊まっていますが
AM6:00に登り始め、AM11:00八号目に下山しました。

Gassan6

明日、7月25日(土)は

【出羽三山(羽黒山)】38 です。

2009年7月23日 (木)

【最上川】36

再び尾花沢に戻り、大石田から最上川沿いに進むと
芭蕉が乗船した本合海に出ました。
ここに芭蕉と曽良の銅像がありました。
今日の流れは穏やかでしたが最上川は富士川、
球磨川とともに日本三大急流と言われている通り、
当時は雨上がりも重なって、流れは大変速かったそうです。

Mogamigawa1

本合海に句碑がありました。

五月雨を 集めて早し 最上川

乗船前は 「集めて涼し」 であったが、
乗船後に 「集めて早し」 に改作されたと言われています。

船下りの途中にある戸澤藩船番所跡で、
最上川の舟の通行を監視していたそうです。
最上川を更に下ると仙人堂があり、
その近くに白糸の滝がありました。

Mogamigawa3

芭蕉達は酒井藩が関所を置いていた庄内への入り口、
清川関で下船しています。

Mogamigawa4

下船した芭蕉像です。
芭蕉達はここから出羽三山へ向かいました。

Mogamigawa5

明日、7月24日(金)は

【出羽三山-1(月山)】37 です。

2009年7月22日 (水)

【山寺】35

降り続いていた雨も上がり、7月13日晴
芭蕉達は勧められて予定に無かった山寺に向かいました。
立石寺山門です。
山寺は立石寺といい、860年に慈覚大師が開いたと言われ、

比叡山延暦寺に倣って創建された天台宗の古刹です。

奥の細道には
「人々のすすむるによって麓の坊に宿かり置きて山上の堂に登る」
とあります。

Rissyakuji1

山門を入ると直ぐに句碑がありました。

閑かさや 岩にしみいる  蝉の声

Rissyakuji5

句碑の傍に芭蕉と曽良の像がありました。

Rissyakuji3Rissyakuji4

奥の細道に
岩に巌を重ねて山とし、松栢年ふり、土石老いて
苔なめらかに、岩上の院々扉を閉めて、物の音
きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、

佳景寂莫として、心澄み行のみ覚ゆ」とあります。

石段は1018段、上るにつれて景色が開けるので
思ったより楽に上がれました。

Rissyakuji2_2

明日、7月23日(木)は

【最上川】36 です。

2009年7月21日 (火)

【尾花沢】34

山刀伐峠を越し暫く行くと、尾花沢です。
会うのを楽しみにしていた清風は紅花大尽と呼ばれる程の
豪商で、俳諧を通じて芭蕉と交流があったそうです。
「芭蕉・清風歴史資料館」は店舗と母屋を移築した

とありました。

Obanazawa4_2

資料館の前には芭蕉像がありました。
ここ尾花沢で詠んだ芭蕉達の句です。

這出よ 飼屋が下の ひきの声

まゆはきを 俤にして 紅粉の花

こがい(蚕飼)する 人は古代の すがたかな (曽良)

Obanazawa1

清風宅跡から10分程の所に、芭蕉達が泊まった
養泉寺がありました。
ここには黒羽の次に長い10泊と言う長期滞在しています。
芭蕉達は清風宅に3泊、近くの養泉寺に7泊しています。

奥の細道には 「清風と云うものを尋ぬ。
彼は富めるものなれども、
心ざしいやしからず。都にも折々かよひて、
さすがに旅の情をも知りたれば日比とどめて、
長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る」 とあります。
何故、この土地で最も有力な紅花商人であり、
俳人である清風宅に10泊しなかったのか?
又何故、尾花沢で芭蕉中心の句会が開かれなかったのか?
等々この文章には疑問が残ります。
文献によると、清風からあまり厚く持て成されていない様子で、
芭蕉達は早く尾花沢を発ちたかったが
雨で足止めをされていたそうです。

Obanazawa2

庭の覆堂の中に句碑がありました。

涼しさを 我宿にして ぬまる也

この句から芭蕉の心が見えて来る思いがします。

Obanazawa3

明日、7月22日(水)は

【山寺】35 です。

2009年7月20日 (月)

【山刀伐峠】33

47号線を更に進むと山刀伐峠に差し掛かります。
現在はトンネルで一気に通過出来ますが
当時は細い山道でした。
ここが山刀伐峠への登り口です。
当時を偲んで峠の頂上まで歩く事にしました。

Natagiri1

主人から道が定かでないし、物騒なので道案内を
雇った方が良いと言われ、頼もしそうな若者が
道案内をして呉れた。 と奥の細道にあります。
山刀伐峠とは昔、民家の夫婦が山刀で切り殺された
と言う伝説から呼ばれているとの事です。
「今日こそ必ずあやふきめにもあふべき日なれ」 と
芭蕉は決死の思いで峠越えをした様ですが
現在は整備され約30分で峠の頂上に着きました。

Natagiri2

峠の頂上には俳人の加藤楸邨の筆による
奥の細道の一節が刻まれた文学碑がありました。

「高山森々として、一鳥声聞かず、木の下闇茂りあひて、
夜行くがごとし。雲端に土ふる心地して、篠の中踏み分け、
水を渡り岩につまずいて、肌に冷たき汗を流して最上の庄に出ず」
とありました。

Natagiri3

明日、7月21日(火)は

【尾花沢】34 です。

2009年7月19日 (日)

【尿前の関】32

更に国道47号線を進むと尿前の関にかかります。
「関守にあやしめられてやうやうとして関を越す」
と奥の細道にある様に伊達藩の境界で

取り締まりは厳しかったそうです。

Shitomae1

尿前の関を通ると出羽街道の中山越えの道が続いていました。
当時の雰囲気を漂わせている長閑な山道でした。

Shitomae3

中山を越え、再び国道47号線を進むと
右手に封人の家がありました。封人とは国境を守る人の事で
代々庄屋が勤めていたそうです。

Shitomae4

芭蕉達が泊まった部屋です。
受付のおじいさんによると煙は蚤虱を退治しているそうです。
細かな演出は滑稽でした。

「大山をのぼって、日既に暮れければ封人の家を見かけて、
舎りを求む、三日風雨あれて、よしなき山中に、逗留す」
と 奥の細道にあります。

Shitomae5

庭に句碑がありました。

蚤虱 馬の尿する 枕もと

Shitomae6

明日、7月20日(月)は

【山刀伐峠】33 です。

2009年7月18日 (土)

【岩出山】31

南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊まる
と奥の細道にあります。
芭蕉達は6月30日一関から岩出山まで歩いています。
途中の千本松長根は当時の雰囲気があり、

芭蕉と曽良がこの道を通ったと思うと感無量でした。

Iwadeyama1

更に県道を進むとやがて岩出山の町に出ました。
岩出山は伊達政宗が青年期を過ごした所で、
伊達家の学問所の旧有備館がありました
「備えあれば憂い無し」から名付けたそうです。
茅葺き屋根の学問所は最も古い藩校と記されていました。
伊達藩は大変学問に力を注いでいたそうです。

Iwadeyama3

鳴子へ向かって出羽街道(国道47号線)を進むと
やがて歌枕の小黒崎に出ました。ここには芭蕉像があり、
説明板によると芭蕉像後ろの何の変哲も無い
標高145mの小黒崎山が歌枕との事でした。

Iwadeyama5

又近くには歌枕の美豆の小島もありました。
平安朝の昔から歌枕として知られていたそうですが
現在では田圃の中に説明板があるだけでした

小黒崎・美豆の小島を過ぎて、なるごの湯よりにかかりて
「出羽の国に越むとす」 と奥の細道にあります。

Iwadeyama6

やがて鳴子温泉を過ぎ、暫く行くと絶壁の鳴子峡に出ました。
急な石段を降りると川岸の遊歩道まで行けます。
この石段を又上ると思うと厭にになりましたが
近々控えている月山登山の足慣らしと思いつつ下りてみました。
遊歩道の渓谷美は素晴らしいものでした。
紅葉の時期は凄いだろうなあ!・・・
と思いつつ急な階段を引き返しました。

Naruko4

ちょっと寄り道です。
鳴子温泉から山道に入り、30分程で鬼首温泉です。
至る所で90℃位の熱湯が噴出していました。
15分位の間隔で10m位吹き上げる間歇泉は圧巻でした。
露天風呂で暫しの休憩して又次の旅を続けました。

Naruko3

明日、7月19日(日)は

【尿前の関】32 です。

2009年7月17日 (金)

【平泉-2】30

中尊寺は850年慈覚大師が開き、
清衡によって完成されたと言われています。

当時の侭現存しているのは金色堂だけだそうです。

Hiraizumi1

杉並木の月見坂を上がると経堂と光堂があります。
経堂は藤原三代、清衡・基衡・秀衡の像があり、

光堂は三代の棺が納められ、遺骨が安置されています。

奥の細道には光堂は四面を囲い甍で覆い風雨を凌いでいるので
千歳の記念として残るであろうと記してあります。
現在、旧覆堂も重要文化財となり、コンクリートの覆堂で

保護されています。

五月雨の 降残してや 光堂

Hiraizumi2

近くにある毛越寺は極楽浄土を想定して
二代基衡が建立したそうです。

Hiraizumi6

本堂の右手に移築された
芭蕉直筆の「夏草や・・・」の句碑がありました。
実に達筆でしたが場違いの様に思いました。
衣川の合戦場の見える高館にあった句碑の方が
臨場感があって感動しました。
因みに芭蕉達は毛越寺には立ち寄っていないそうです。

Hiraizumi7

一関への途中で、ちょっと寄り道です。
巌美渓は栗駒山を源とする磐井川の清流が奇岩を造り
滝や淵になっている名勝です。

Ichinoseki1

明日、7月18日(土)は

【岩出山】31 です。

2009年7月16日 (木)

【平泉-1】29

芭蕉達は雨の中登米から一の関に着いて1泊、
翌日雨も上がり平泉を見て
その日の内にまた一の関の宿に戻っています。
丘の上の義経堂には木造の義経像が祀られています。

ここで義経は自害したと言われています。

Hiraizumi4

眼下には北上川が流れ、正面に束稲山が見えます。
高館に上ると北上川が南部地方から流れている
大河がある。衣川は城を巡って高館の下で
大河に落ちている。泰衡達の旧跡は衣が関を隔てて
蝦夷を防ぐと見えたり、よりすぐった忠臣がこの城に
こもったが、その功名も一時のもので、
後は叢となっている。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷きて、
時のうつるまで泪を落としたと芭蕉は書いています。

夏草や 兵どもが 夢の跡 

Hiraizumi5

義経堂に上る手前に卯の花清水があり
そこに曽良の句碑がありました。義経の為に
最後まで戦った兼房の白髪を思い出して詠んでいます。

卯の花に 兼房みゆる 白毛かな (曽良)

Hiraizumi8

明日、7月17日(金)は

【平泉-2】30 です。

2009年7月15日 (水)

【石巻】28

芭蕉達は、姉歯の松・緒絶の橋等の歌枕を尋ねようとしたが
道に迷ってしまい、石巻に出てしまいます。

日和山公園からの石巻港です。

Ishinomaki1

日和山公園の一番眺望の良い場所に銅像がありました
曽良の芭蕉への思いやりが表現されていました。

Ishinomaki2

芭蕉達は石巻から平泉に向かう途中、登米に一泊しています。

ここには江戸時代の武家屋敷が保存されていました。

Toyoma1 Toyoma2

明日、7月16日(木)は

【平泉-1】29 です。

2009年7月14日 (火)

【松島】27

愈々松島です。
芭蕉は奥の細道の序文で「笠の緒付けかえて、
三里に灸すうるより、松島の月まず心にかかりて、」と

この旅が松島の景観にあることを記しています。

舟を借りて松島に渡る。2里余りで雄島の磯に到着した。
当時は僧侶達の修行の島で芭蕉が訪れた時も
世捨て人が何人かいたそうです。
曽良の句碑がありました。

松島や 鶴に身をかれ ほととぎす (曽良)

Matushima2

芭蕉は言い古されているが松島は日本一の風景である。
誰でも筆をふるい、詞を尽くす。と賞賛しています。
しかし何故か松島には芭蕉の句碑は有りませんでした。

Matushima1

五大堂は朱塗りの橋を渡った小島にありました。
坂上田村麻呂が建立した毘沙門堂で、後に慈覚大師が
五大明王を安置したと記されていました。

Matushima3

近くの瑞巌寺は慈覚大師の開基と言われ、伊達政宗が
再建して、以来伊達家の菩提寺として栄えたそうです。
曽良日記によると、残らず見物したと記されています。

Matushima4

明日、7月15日(水)は

【石巻】28 です。

2009年7月13日 (月)

【塩竈】26

やがて塩竈に着くと
製塩に縁りのあるお釜神社がありました。
ここには南北朝から室町時代に使用されたと言う

釜がありました。

Shiogama1

曽良の隋行記にはこのお釜を見たと書いてあります。

Shiogama4

直ぐ近くに塩竈神社の表参道(男坂)がありました。
芭蕉は6月25日早朝、この202段の階段を上って

塩竈神社に参詣しています。

Shiogama2

急な階段を上がると本殿です。
芭蕉と同じ階段を登って参詣していると思うと、
江戸時代にタイムスリップした思いがしました。

石の階九仞に重なり、朝日朱の玉垣をかかやかす。
かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ
吾国の風俗なれと、いと貴けれ。と奥の細道に記されています。

Shiogama3

明日、7月14日(火)は

【松島】27 です。

2009年7月12日 (日)

【末の松山】25

芭蕉は近くの歌枕である野田の玉川、沖の石、末の松山を尋ねています。

説明の看板があるので解りますが現在周囲は住宅街になっていて、
野田の玉川は何処にでもある町内を流れる排水路であり、
沖の石は町内の児童公園と言う感じでした。
当時ここは海岸だったとの説明に時代の流れを感じました。

Tagajyou5

Tagajyou3

沖の石から道かどを曲がると直ぐ末の松山でした。
末の松山は芭蕉が尋ねた当時と同様に末松山宝国寺と言う
お寺になっていました。芭蕉の時代からある樹齢450年と言う

松の大木が印象的でした。

末の松山は寺を造りて、末松山といふ。
松のあひあひ皆墓原にて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、
終はかくのごとき。 と奥の細道にあります。

Tagajyou4

明日、7月13日(月)は

【塩竃】26 です。

2009年7月11日 (土)

【壷の碑】24

芭蕉は加右衛門の画いて呉れた絵図を頼りに
塩竈街道を進み多賀城址に至っています。
多賀城は724年に創建され平安時代まで東北地方の

政治や軍事の中心であったそうです。

Tagajyou1

壷の碑は道路を隔てた小さな丘の上にありました。
鞘堂の中には重要文化財の大きな石碑があり、
かろうじて文字は読めますが意味不明でした。
諸国からの距離や多賀城の創建・修造について
書かれていると説明がありました。
碑が建立されて約1000年後に芭蕉が訪れ、
それから更に300年後に同じ石碑を見ている。
奥の細道を辿る旅に出て本当に良かったと思いました。

昔から詠まれている歌枕は多く語り伝えられると言っても
山崩れ、川流れ、道が変わり、石は埋もれて土に隠れて
木は老いて若木に代わるので、時代が変わって
その跡が確かでないのにここでは古人の心を見せていると、
芭蕉が旅の苦労を忘れて感動している様が
奥の細道に書かれています。

Tagajyou2

明日、7月12日(日)は

【末の松山】25 です。

2009年7月10日 (金)

【宮城野】23

6月20日、名取川を渡って仙台に入った。
ちょうど5月のあやめを葺く日であった。
宿を探し求めて4~5日滞在した。
ここに画工の加右衛門と言う者がいて、
多少風流を解すると聞いて知り合いになった。
と奥の細道にあります。
彼の案内で青葉城、東照宮、榴ヶ岡天満宮、

陸奥国分寺跡などに行っています。

青葉城の伊達政宗です。
生憎城壁の工事中で、然も天気が悪く視界が無く、
市内の展望は霞の中でした。

Sendai2

伊達家の菩提寺である瑞宝寺です。
山門を入り、石段を上がります。
唐門を抜けると、伊達政宗の廟所の瑞宝殿、
二代忠宗の廟所感仙殿、三代綱宗の廟所善応殿が

ありました。

Sendai4

伊達政宗の廟所の瑞宝殿です。再建されたそうです。
華麗でしたが、日光東照宮とは又違った雰囲気でした。

Sendai5

加右衛門が
はっきりしない歌枕を何処と考えて1日案内して呉れ、
薬師堂・天神の御社を拝んでその日は暮れた。
と奥の細道にあります。

Tutujigaoka

奈良時代に陸奥国分寺が創建され、
文治5年(1189年)源頼朝の奥州侵攻の時に焼失、
慶長12年(1607年)、現存する薬師堂・仁王門・鐘楼などを

伊達政宗が建立したと記されてありました。

薬師堂の仁王門と境内の芭蕉句碑です。

あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒

出立に際し、松島と塩釜の所々を画いて贈られ、
又紺の染緒の草鞋2足を餞別として貰った。
風流において只者でないと思ったと奥の細道にあります。

Sendai3Yakusiji

明日、7月11日(土)は

【壷の碑】24 です。

2009年7月 9日 (木)

【岩隈の松】22

岩沼に入ると直ぐに竹駒神社への道標がありました。
境内は広く、社殿は如何にも歴史がありそうな
荘厳さを漂わせていました。

日本3大稲荷の一つと言われているそうです。

Iwanuma1

神社の裏に二木の松史跡公園があり、そこに歌枕の
武隈の松が有りました。武隈の松には目覚める
思いがした。根は土際から二木に分かれて
昔の姿を失っていない。
能因法師の「武隈の松はこのたび跡も無し、
千年を経てや我は来つらん」を思い出し感激した。と
奥の細道にあります。

Iwanuma2

芭蕉の句碑は
この史跡公園と竹駒神社の両方にありました。

桜より 松は二木を 三月越し

Iwanuma3

明日、7月10日(金)は

【宮城野】23 です。 

2009年7月 8日 (水)

【笠島】21

鐙摺・白石城を過ぎ笠島の郡に入る。
笠島の道祖神前を下馬せずに通ったため、
神罰に当たり落馬して死んだと言う
西行が 「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて 
枯野の薄かたみにぞ見る」 と詠んだ
藤原中将実方の塚はどのあたりかと人に問うと、
これより遥か右に見える山際の蓑輪笠島に道祖神の社と
形見のすすきが今もあると教えて呉れた。
五月雨で道が大変悪く疲れてしまい、よそから眺めてやり過ぎた。

と奥の細道にあります。

現在は道標が完備されていて、迷わずに
訪ねる事が出来ました。

Kasasima1

道祖神社から5km程離れた竹林の中に
藤原実方の墓があり、近くに句碑がありました。

笠島は いづこさ月の ぬかり道

Kasasima2

明日、7月09日(木)は

【岩隈の松】22 です。

2009年7月 7日 (火)

【飯塚】20

飯坂温泉は擦上川沿いに旅館が並んでいます。
その一角に芭蕉ゆかりの地と言う石碑があり、
芭蕉は6月18日、ここに泊まったとありました。

その夜、飯塚(飯坂)に泊まる。温泉に入って
土間にむしろを敷いて囲炉裏の明りで寝る。
夜に入って雷が鳴り、雨が降って寝ている上に漏り、
蚊や蚤で眠れない。持病で気を失いそうになる。

Iizaka1

夜も明けて旅立ったが気分が冴えない。
地の涯を旅する行脚なので路上で死ぬも天命と
気力を取り戻して伊達の大木戸を越した。
と奥の細道に記されています
近くに共同浴場 「鯖湖湯」 がありました。 この浴場の
歴史は古く、日本武尊が入浴したと言う伝説があります。
恐らく芭蕉の入った温泉では?と思い小生も入る事にしました。
入浴料100円でしたが湯温が43℃もあり、

熱くて入れないので温めようとしたら
地元の爺さんに叱られてしまい、早々に退却しました。

Iizaka2

明日、7月08日(水)は

【笠島】21 です。

2009年7月 6日 (月)

【飯塚の里】19

佐藤庄司の旧跡は左の山際一里半にあり、鯖野と聞いて
尋ねて行くと丸山と言う所に庄司の旧館があった。
かたわらの古寺(医王寺)に一家の石碑がる。
中でも二人の嫁の墓は哀れであった。
と 奥の細道に記されています。

Iouji1

医王寺は奥州平泉、藤原氏の配下の庄司佐藤基治、
その子継信・忠信の菩提寺で,兄弟は義経の身代わりとなり、
壮絶な最後を遂げたと言われています。
戦いで二人の息子を失った老母の為に嫁達が武将の姿をして
慰めたとの話に芭蕉は泪しています。

Iouji2

奥の細道には寺に入り茶を乞うと義経の太刀と弁慶の笈を
寺宝としていたと記しています。
境内の宝物殿には義経の太刀と弁慶の笈がありましたが
小生にとってはその隣にある端正な芭蕉坐像の方が
気になりました。

Iouji4

医王寺の山門を入ると右手に本堂があり、
その前庭に芭蕉の句碑がありました。

笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟

Iouji3

明日、7月07日(火)は

【飯坂】20 です。

2009年7月 5日 (日)

【信夫の里】18

翌日伝説のしのぶもじ摺りの石を尋ねて、
信夫の里へ,行った。
文智擦観音山門にある芭蕉像です。

Shinobusato2

遥か山陰の里に石が半分埋もれてあり、
昔はこの山の上にあったが往来する人が麦の葉をちぎって
この石で試したので嫌がってこの谷に突き落としたので
石の表が下向きになっていると里の子供が教えて呉れた。
と 奥の細道に記されています。

Shinobusato3

この石は乱れ染物を染布に摺るのに用いたもので、
しのぶもちずりの染物は平安末期~鎌倉時代まで
使用されたと言われています。

早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺

Shinobusato4

明日、7月06日(月)は

【飯塚の里】19 です。

2009年7月 4日 (土)

【安積山】17

等窮の庵から約5里、檜皮の宿を離れると安積山がある
この辺り沼が多く、かつみ刈る頃なのでどの草が花かつみと
言うのか尋ねたが知る人はいない。
尋ね歩いて日は山の端にかかってしまった。
二本松より右に行き、黒塚の岩屋を一見して福島に泊まった。

と 奥の細道に記されています。

Adachigahara1_2

謡曲「安達原」で、旅人を泊めては殺したと言う
鬼婆が住んでいた岩屋と埋められた塚です。
ここには芭蕉の句碑はありませんでした。

みちのくの 安達の原の黒塚に
鬼こもれると聞くはまことか
(平兼盛)

涼しさや 聞けば昔は 鬼の家
(正岡子規)

Adachigahara2

明日、7月05日(日)は

【信夫の里】18 です。

2009年7月 3日 (金)

【須賀川-2】16

可伸庵跡から10分程歩くと、古来須賀川の総鎮守として
崇拝されていたと言う、神炊舘神社(諏訪神社)がありました。
曽良の随行記によると6月15日に、参詣しています。
鳥居をくぐると、神水が湧き出しています。収穫の時、
新米を炊き神に感謝したと言う故事があるとの事です。
歴史の有りそうな厳かな石灯籠の列は見事でした。

Sukagawa10_2

近くに相良等窮の墓のある長松院があり、
本堂前に等窮の句碑がありました。

あの辺は つくば山哉 炭けふり

Toukyuukuhi

相良等窮の先祖は秀吉と戦ったと言う、城持ちの武将で、
等窮は須賀川宿で問屋を営み駅長の要職にあったとの事。

一族の墓は一際目立つものでした。

Sukagawa8

曽良日記によると須賀川を発った日(6月16日)に
阿武隈川の乙字ヶ滝に寄っています。

昨夜の降雨で水嵩が増して実に壮観でした。

Sukagawa1

川岸には奥の細道には記されていない芭蕉句碑がありました。

五月雨の 滝降うづむ 水かさ哉

Sukagawa2

明日、7月04日(土)は

【安積山】17 です。

2009年7月 2日 (木)

【須賀川-1】15

奥の細道には
白河の関を越えて行くうちに阿武隈川を渡る。
左に磐梯山が高く、右に岩城・相馬・三春の庄があり
常陸・下野の地との境に山が連なっている。
以前から親交のあった等窮と言う者を尋ねたとあります。

等窮宅跡と可伸庵跡は須賀川のNTTになっていました。

Toukyuuato

奥の細道には4~5日留められた。とありますが、
実際は等窮宅に7泊した様です。
その間に色々と訪ねています。等窮は奥州俳壇の
有力者で、以前江戸で俳諧を通しての知人であったそうです。
等窮の屋敷の一隅に庵を構えていた可伸庵はNTTの裏に
ありました。

Sukagawa5

芭蕉は大きな栗の木の陰に庵を構え
世に背を向けた僧、可伸を訪れています。

そのひそやかな様子に感銘して句を残しています。

世の人の 見付けぬ花や 軒の栗

Sukagawa6_2

近くに芭蕉達が参詣した十念寺がありました。

Sukagawa3

等窮から白河の関をどの様な句を作って越えられたか問われ、
長途の苦しみで心身疲れ、又風景に魂を奪われ、
古歌、古人に断腸の思いがしてはかばかしく思いが廻らず、
一句も無しに超えるのもすまないと思い、一句をひねり出した。と

説明しています。 ここ十念寺にその句碑がありました。

風流の 初や奥の 田植うた

Sukagawa4_2

明日、7月03日(金)は

【須賀川-2】16 です。

  

2009年7月 1日 (水)

【白河】14

奥州街道はやがて下野と陸奥の県境である峠に
差し掛かります。 ここに境の明神があります。
社は下野(栃木県側)と陸奥(福島県側)にあります。
Shirakawa1
平安時代末期まで白河の関はここにあり、
江戸時代に現在の場所に移されたそうです。

芭蕉達は両方の白河の関を尋ねています。

Shirakawa11_2

街道を外れて山村を幾つか過ぎ、
山道を進むとやがて白川の関跡です。
当時は東北の玄関口として蝦夷の南下を防ぐ為に
設置されたがやがて関としての機能は無くなり
歌枕として名を残したそうです。

Shirakawa2

石段を上がると質素な白河神社がありました。
白河の関では、古人は冠を正し衣装を改めたと言う。
芭蕉達は卯の花をかざして晴れ着のつもりにした様です。

卯の花を かざしに関の 晴れ着かな (曽良)

「心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」
ここに来てやっと芭蕉は旅の覚悟が出来たと記しています。

Shirakawa3

白河に入ると白河藩主松平定信によって造園された
日本最初の公園である南湖公園に出ます。

Shirakawa4

湖岸道路を進むとやがて白河駅に出ます。
駅付近には現在でも城下町の雰囲気が残っています。
駅前には戊辰戦争で落城した白河藩主の居城、
小峰城が復元され、城跡公園になっていました。

Shirakawa5

明日、7月02日(木)は

【須賀川-1】15 です。

2009年6月30日 (火)

【芦野】13

芭蕉達は6月7日、奥州街道を進み、
芦野氏3900石の城下町に入ります。
城下の外れに竹林があり、質素な墓が並んでいます。
これが芦野氏旧墳墓です。
Ashino1

街道右手の御殿山には芦野氏の居城桜ヶ城城址があり、

ここから芦野のかっての城下町が一望出来ました。
芦野氏19代資俊は桃酔と言う俳号を持つ程俳諧に
通じていて、「この柳見せばやな」とのたまひ聞こえ給うたので

遊行柳に立ち寄ったと芭蕉は記しています。

Ashino2

街道を進むと左手には温泉神社があります
樹齢700年の大杉はそれは見事なものでした。
芭蕉達もここに立ち寄ったと記されています。
Ashino3_2
城下町の外れには西行が詠み、謡曲にも歌われた遊行柳が
田の畔に残っていました。ここの郡守がこの柳を見せたいと
折々言ってよこされたので何時になったらばと思っていた。
今日この柳の陰に立ち寄りました。

と芭蕉は記しています。

Ashino4_2

田一枚 植えて立ち去る 柳かな
小生は鈍感なので、この有名な句から芭蕉の見た情景が
見えて来ません。
文献によると、芭蕉は柳の下で尊敬する西行を思っていた。
はっと我に返ると田植えの人々は一枚田を植え終わり、
次の田へと立ち去って行く、自分もこうしてはいられないと
柳の下を立ち去って旅を続ける。こう言う情景だったそうである。
納得である。尚、この句は旅の途次で作られたものでは無く、

旅の後4年後に回想して本文中に挿入されたそうです。

Ashino5

明日、7月01日(水)は

【白河】14 です。

2009年6月29日 (月)

【殺生石】12

那須温泉湯元にある殺生石への途中に常念寺があります。
ここに芭蕉の句碑がありました。是より殺生石に行く。
館代より馬にて送られる。この口付きのおのこ、

短冊得させよと乞う。やさしき事を望み侍るものかなと

野を横に 馬牽き向けよ ほとゝぎす

Kurohane7

那須温泉湯元に温泉神社があります。

その裏山が殺生石です。

Nasu2

九尾の狐の怨霊が石になったと言う伝説があります。

Nasu3

殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。
蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。
と奥の細道にあります。
6月5日、芭蕉達は那須温泉湯元に泊まっています。
日も傾いたので、小生も一泊です。

Nasu4

明日、6月30日(火)は

【芦野】13 です。

 

2009年6月28日 (日)

【黒羽-2】11

裏山を登ると黒羽城址公園です
ここから黒羽が一望でした。
Kurohane4
当時芭蕉達が尋ねた修験光明寺は無く、
芭蕉句碑だけが残っていました。
修験光明寺と言うのがあり、招かれて行者堂を拝んだ。
(役行者の一本歯の高足駄を拝んだと言われています)
芭蕉はここで奥州への旅の無事を祈っています。

夏山に 足駄をおがむ 首途哉

Kurohane2

近くの西教寺には曽良の句碑がありました。

かさねとは 八重撫子の 名なるべし

Kurohane8

雲巌寺は黒羽から車で30分、静寂な山中にありました。
禅宗の四大道場の一つで、境内には自由に入れますが
建物内は一切立ち入り禁止で、本堂裏の仏頂禅師の庵跡に
行けなかったのは残念でした
芭蕉は5月21日黒羽に到着して、早速禅の師である
仏頂禅師に会いに雲巌寺を訪ねています。
あいにく師は不在で

芭蕉は即興の句を師の庵の柱に掛けて残しています。

木啄も 庵はやぶらず 夏木立

Kurohane5 

臨済宗の僧、仏頂禅師が開山した深川の臨川寺で
芭蕉は禅を学んだと言われています。
恐らく芭蕉が黒羽で一番会いたかったのが
仏頂和尚だったと思われます。

Kurohane6

明日、6月29日(月)は

【殺生石】12 です。

           

2009年6月27日 (土)

【黒羽-1】10

芭蕉達は黒羽に5月21日に到着しました。
黒羽の館代浄坊寺何某の家を訪ねた。
思い掛けない訪問で主人は喜び毎日毎夜語り続けて
その弟の翠桃は朝夕欠かさず来て自分の家にも伴って、
親族の屋敷にも招かれた。
Kurohane9
玉藻の古墳を訪ねたり、那須の与市の氏神と言う八幡宮に参詣、
黒羽藩主の城代家老を勤めていた桃雪と弟の翠桃、
二人の芭蕉門人から温かくもてなされ、
黒羽には奥の細道で一番長期間の14日間逗留しています。

Kurohane10

Hatimanguu

黒羽滞在中、
芭蕉達は周辺の名所旧跡を数々訪ねています。
大雄寺は黒羽藩主大関家の菩提寺です。

山門・本堂等々総茅葺きで当時の風情が残っています。

Kurohane1

近くに芭蕉の館があり、芭蕉と曽良の像がありました。

Kurohane3

明日、6月28日(日)は

【黒羽-2】11 です。

2009年6月26日 (金)

【日光-2・矢板】09

芭蕉達は滝見物の後、

大谷川沿いの慈雲寺に寄っています。

Nikko4_3

そこには川に向かって石地蔵が一列に並んでいます。
何度数えても合わないので化地蔵と呼ばれています。

Nikko6_2

又大谷川には男体山の噴火による溶岩で出来含満が淵があります。

曽良がここから見える男体山を眺めて詠んだ句です。

剃り捨て 黒髪山に 衣更  (曽良) (曽良)

黒髪山(男体山)は霞がかかって雪が残っている。
曽良は河合惣五良と言って、
芭蕉庵の近くに住み台所仕事を手伝ってくれていた。
この度松島・象潟を眺める為と私の旅の苦労を助け労わろうと
暁髪を剃って、名も惣五を宗悟と改めて旅立った。
こう言う訳で黒髪山の句がある。
と芭蕉はそれと無く随行者の曽良を紹介して、

衣更の二字が力強く聞こえると誉めています。

芭蕉達は含満ヶ淵を見た後、日光北街道を通って
矢板⇒大田原⇒黒羽と向かっています。
矢板の箒川に架かるかさね橋を渡ると那須野が原です。
文献によると、芭蕉はこのあたりで馬を借りた様です。
Yaita_3
那須の黒羽と言う所に知人がいる。
遥かな一村を目当てにして行ったが雨が降り日が暮れてしまった。
一夜の宿を借りて翌日野中を行くと野放しの馬がいた。
草を刈る男に嘆き言い寄ると 「どうしたらよかろうな!
この野は縦横に広くて慣れぬ旅人は踏み違えるだろう、
この馬の留まる所で返して下さい」 と貸して呉れた。
子供二人が馬の跡を走って来る。ひとりは小娘で名を 「かさね」 と言う。 
聞き慣れぬ名が優しかった。

やがて人里に着いたので鞍壷に借賃を結び付けて馬を帰した。

かさねとは 八重撫子の 名なるべし  (曽良)

Busonhaiga_2

明日、6月27日(土)は

【黒羽-1】10 です。

2009年6月25日 (木)

【日光-1】08

芭蕉達は5月19日、昼頃日光へ到着しています。
当時は家康の霊廟があるだけで、一般に公開されず、
江戸浅草にあった清水寺の紹介状で参拝しています。
丁度、東照宮は大修復工事の最中で見物はかなり
制限されていて、芭蕉達は散々待たされてしまったそうです。
そう言う訳か、奥の細道では東照宮については触れていません。

Nikko2

Nikko3

あらたふと 青葉若葉の 日の光

この句は翌日、裏見の滝へ行く途中で詠まれています。

芭蕉達は翌日の5月20日(快晴)、裏見滝へ行った。
駐車場から、山道を500m程登ると落差45mの
裏見の滝があります。当時と異なり岩が崩落してしまい
裏側に回り込めなくなっています。
現在、観光客の殆どは華厳の滝へ行きますが、
芭蕉達は何故か行っていない。当時は道が険しく
華厳の滝を見る事が出来なかったので
歌枕にならなかったそうです。
奥の細道によると、二十余丁、山を登って滝有。
岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落ちたり。
岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より見れば、

裏見滝と申伝へ侍る也。

暫くは 滝に篭るや 夏の初め

Nikko7

明日、6月26日(金)は

【日光-2・矢板】09 です。

2009年6月24日 (水)

【金売吉次の墓・日光杉並木】07

曽良の随行日記には 「壬生ヨリ楡木ヘ二リミフヨリ半道
ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有」
と記されています。その通り、日光へ向かう途中の
畑の中に金売吉次の墓がありました。
吉次とは源九郎義経を鞍馬山から連れだして
藤原秀衡の元に送り届けた豪商と言われています。
義経が平家を壇ノ浦で破った後、頼朝公と不仲になり、
奥州平泉へ逃れようと吉次は義経のお供をして

来ましたが、病に倒れ、ここで生涯を終えたそうです。

Mibu1

街道を進むと、今市から日光まで見事な杉並木が続きます。
この街道は日光例幣使街道とも呼ばれています。
毎年朝廷から日光東照宮の例大祭に金幣を奉納する為に、
勅使(使者)が通ったそうです。
勅使の格式は高く、大名行列も遠慮する程で、
沿道の住民は土下座して一行を見送ったそうです。
勅使は50人程で殆どが公家に出入りしていた商人達で、
一行の中には権威を悪用する者もいて、籠をゆすって
人足を脅し、村役人達が金品を渡してその場を納める事が
度々あったそうです。これが「ゆすり」の語源だそうです。
芭蕉達は東照宮参拝後、日光の麓に泊まっています。
「よろず正直を旨としているので人々から仏五左衛門と言われている。
安心してお休み下さいと主から言われる。
主のなす事に心とめて見るに、利害損得に無分別で
正直一点ばりであった。

生れ付き清らかな性質は尊ぶべきである。」 と奥の細道にあります。

Imaichi1

明日、6月25日(木)は

【日光-1】08 です。

2009年6月23日 (火)

【大神神社(室の八島)】06

芭蕉達は日光街道を進み鹿沼の手前の
大神神社に5月18日参詣しています。
富士浅間神社と同じ御神体で室の八島の歌枕には
煙を詠う謂れが有ると芭蕉は室の八島の由来を

同行曽良の話として書いています。

Muronoyasima1

暮るる夜は衛士のたく火を
   それと見よ室の八島も
     都ならねば (藤原定家)

等々多くの歌人がこの地を詠んでいます。
境内の鳥居をくぐると、
池に島が八つ在り、それぞれに橋が架かっていて、
筑波神社・天満宮・鹿島神社・雷電神社・浅間神社・
熊野神社・二荒山神社・香取神社が祀られています。
これが室の八島です。

Muronoyashima21

明日、6月24日(水)は

【金売吉次の墓・日光杉並木】07 です。

2009年6月22日 (月)

【春日部】05

奥の細道では草加に泊まっていますが、曽良の
随行日記によると次の粕壁(春日部)に泊まっています。
泊まった場所については江戸時代創建の東陽寺説と
鎌倉中期創建の小渕山観音院説があります。
東陽寺には山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」とあり、
境内に曽良随行日記の一節「廿七日夜カスカベニ泊ル
江戸ヨリ九里余」と刻まれた真新しい石碑があり、
山門・本堂等々全てが新しく、奥の細道を宣伝材料に

しているなあ!と 思いました。

Touyouji_4

小渕山観音院(正賢寺)は丁度山門の修復工事中でした。
全てが古びた佇まいで境内には芭蕉句碑がありました。
毛のいへば 唇寒し 秋の風
この句は奥の細道にはありません。

両寺は好対照な寺院でした。

Kasukabe2

明日、6月23日(火)は 

【大神神社(室の八島)】06 です。

2009年6月21日 (日)

【草加】04

百代橋と言う歩道橋からの草加松並木です。

綾瀬川沿いにおよそ1.5km続きます。

Souka1

松並木に佇み、親しい人達と別れた
千住を振り返っている芭蕉像です。
「其日、漸早加と云う宿にたどり着きにけり、
    痩骨の肩にかゝれる物先ずくるしむ。・・・」と
芭蕉は旅仕度について愚痴を並べています。
芭蕉と曽良がここを通ったと思うと又格別です。

Souka21

明日、6月22日(月)は 【春日部】05 です。

2009年6月20日 (土)

【千住】03

元禄二年、1689年5月16日、芭蕉・曽良・親しい人達は
日の出と共に隅田川を舟でおよそ10km北上して、
日光街道の千住大橋に上陸しています。
橋の手前には平安時代創建の素盞雄神社があります。
Senjyu2_3
境内に芭蕉像を刻した碑がありました。
千じゅと云う所にて舟をあがれば、
前途三千里のおもい胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪をそゝぐ

行春や 鳥啼き魚の 目は泪

と有りました。 この碑は1820年に建てられたそうで、
戦災にも合い傷みが進み読み取るには苦労しました。
余談ですがこの神社から2km程の所が小生の生まれ故郷で、
長女はこの素盞雄神社でお宮参りをしました。
Senjyu31_3
日光街道に架かる千住大橋です。
文禄3年、1594年、家康が奥州への道を開く為に
隅田川で最初に架けた橋と言われています。
現在の橋は昭和2年、1927年に建立とありました。
Senjyuoohashi_3
橋を渡ると直ぐに大橋公園です。   小さな園内に、
奥の細道行程図と矢立初の碑がありました。
碑には「千じゅと云所にて船をあがれば、
     ~後かげのミゆるまでハと、見送るなるべし」
奥の細道の抜粋がありました。
芭蕉と曽良はここで親しい人達に見送られて、

前途3000里の思いを胸に陸奥を目指しました。

Senjyu1_3
明日、6月21日(日)は 【草加】04 です。

2009年6月19日 (金)

【深川】02

1672年、29歳のとき、若き桃青は俳諧師になるべく、
伊賀上野から江戸の中心、小田原町(中央区)へ
移住します。
写真は隅田川を眺めている若き芭蕉像です。
既に江戸でも俳諧師としての才能を評価されていましたが、
それだけでは儘ならず神田上水工事にも携わって
生活していたそうです。

俳諧師として見通しが持てたのは32歳頃の様です。

Fukagawa2_2

当時の俳諧の宗匠は愛好者からの連句に点を付ける点料と
彼らが催す連句会を指導する出座料で生活をしていました。
人気取りの為に客に迎合したり、商策をめぐらす者も出て
太鼓持ちの様な俳諧師が多くなり、桃青は嫌になり、
37歳の冬、辺鄙な深川村(江東区)へ移住しました。
1681年、門人から芭蕉の株一本が贈られ、
これが見事に茂って桃青宅の名物となり、
何時しか人々から芭蕉の庵と呼ばれる様になったそうです。
人々が付けたニックネームですが
桃青も気に入って好んで使う様になったそうです。
これが芭蕉の誕生と言われています。

深川、隅田川岸に芭蕉記念館があります。
庭園には再建された芭蕉庵がありました。
余りにも新しく、綺麗で、もう少し当時の「草の戸」の
雰囲気を出していたらと残念で堪りませんでした。

Fukagawa11_2

川沿いに5分程歩くと、小さな祠だけが祀られた
芭蕉稲荷神社があります。
ここが芭蕉庵跡と言われています。
近くの川岸に芭蕉庵史跡展望庭園があり、
冒頭の隅田川を眺めている若き芭蕉像がありました。

旅立ちに際し住んでいた庵を譲り、門人の杉風の採荼庵に移る時、
雛を飾る賑やかな世俗の人が住む様になると草の戸への別れを

庵の柱に掛けたと記されています。

草の戸も 住み替わる代ぞ 雛の家

芭蕉庵跡から清澄通りをおよそ1km南下すると、
清澄公園があります。
この公園は紀伊国屋門左衛門の屋敷跡で、
明治時代は岩崎弥太郎の別邸だったそうです。

Kiyosumi_2

公園をすぎ、仙台堀川の小さな海辺橋を渡った南詰に
門人、杉山杉風の採荼庵跡がありました。
ここから舟で奥の細道へ出発しました。
Fukagawa41_2

明日、6月20日(土)は 【千住】03 です。

2009年6月18日 (木)

【奥の細道を辿る旅・はしがき】01

  奥の細道を辿る旅

前 編 ( 深 川  ⇒ 尿前の関 )

【 はしがき 】

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり・・・」 で始まる
芭蕉の「奥の細道」は先人の文芸の歴史(歌枕)を辿る旅で、
千住の 「行くはるや・・・」 で始まり、大垣の 「・・・行く秋ぞ」 で終ります。
「奥の細道」 には曽良の句を含めて約60の句があります。 
全てその場で創作された句ばかりで無く、
旅後の 「奥の細道」 編集時に挿入された句も多くあった様です。
元禄2年(1689年)の芭蕉と同じ場所に立って、当時から現在への
歴史の経過が見たくて2003年7月22日 奥の細道を辿る旅に出ました。
奥の細道を何度も読み返し、自分勝手な想像を廻らしています。
あまり詳細に突っ込まないで下さい。

尚、日付は全て陰暦から陽暦に直してあります。

≪参考文献≫
全訳古典撰集、奥の細道(旺文社)・・・
   曽良の随行日記の日付・天気・メモは大変参考になりました。
森敦われもまたおくの細道(日本放送出版協会)

奥の細道を歩く(新潮社)

明日、6月19日(金)は 【深川】02 です。

2009年6月16日 (火)

【御礼とお知らせ】

『日本の旅』関東編 を長期間に亘り、

御高覧戴き有難う御座いました。

今年は信越・北陸・中部編で、8月23日に出発します。

旅行記を10月1日からUPの予定です。

引き続き宜しくお願いします。

明後日、6月18日(木)~8月中旬の予定で

2003年に実施した『奥の細道を辿る旅』の旅行記をUPします。

引き続きお楽しみ下さい。

ではでは・・・

【後藤さんの陶房・お土産の作品・あとがき】128

愈々『日本の旅』関東編は最終回です。
長期に亘る御高覧に感謝です。

後藤さんの陶房です。

Gotouke2

記念に戴いた後藤さんの作品二点です。

大事にさせて戴きます。

Gotouke3

Gotouke4

旅行・陶芸・家庭菜園を趣味にする、
後藤さんの素晴らしいホームページです。
Araki31_2
計画した旅行が完了しましたので、
常磐自動車道(柏IC)⇒首都高速⇒東名高速
⇒名神高速(瀬田東IC)で無事帰宅しました。
本日の走行距離   653.9 km

【あとがき】

『日本の旅』関東編は全走行距離:3,133.1km、
日光国立公園・尾瀬国立公園・南房総国定公園・
水郷筑波国定公園・妙義荒船佐久高原国定公園・
八ヶ岳中信高原国定公園を尋ねました。
今年も現役時代に共に働いた仲間達や学生時代の友人達が
小生の旅に合わせて呉れて旧交を暖めました。
10年来メル友の横浜在住の是松さんが
泉岳寺とお台場を案内して呉れました。
又旅の最後に初対面にも拘わらず千葉県我孫子の
後藤さんの自宅を訪問、御夫婦に歓迎されました。
後藤さんの菜園や陶房を拝見、インターネットで
何時も拝見しているので大変懐かしく思いました。

皆さんの暖かい思い遣りに感謝です。

ではでは・・・   

2009年6月14日 (日)

【メル友、後藤家訪問】127

翌日は実家の町内ではお祭りとかで、
路上駐車が出来なくなり、
1日スケジュールを切上げる事にしました。
幸い長年のメル友である後藤さんが
繰り上げを了解して呉れたので
自宅にお邪魔させて戴きました。

初対面なのに御夫婦で歓迎して戴きました。

Gotouke5

自家農園で採れた沖縄の瓜と陶房屋根に実っていた
キウイを袋にいっぱい貰いました。
後藤さんは県の展覧会に入選する程の腕前です。
お願いして陶芸作品を2点記念に貰いました。

楽しい時を過ごさせて戴き感謝、感謝でした。

Gotouke1

次の6月16日(火)は最終回です。

【後藤さんの陶房とお土産の作品・あとがき】128 です。

2009年6月12日 (金)

【野菊の墓文学碑・矢切の渡し】126

対岸の西連寺の境内に
伊藤左千夫『野菊の墓』の文学碑があり、

小説の一節が刻んでありました。

Yagiri4

再び矢切の渡しで柴又へ、渡し賃¥200.也

Yagiri3

何時しか日も傾いたので家路に着きました。

Yagiri51

次の6月14日(日)は

【メル友、後藤家訪問】127 です。

   

2009年6月10日 (水)

【矢切の渡し】125

帝釈天を過ぎ江戸川の土手を昇ると
矢切の渡しです。
江戸川を柴又から、対岸の千葉県へと.

渡らせてくれます。

Yagiri1

渡し船に揺られると、自然と歌の情景が浮かびます。

「つれて逃げてよ・・・」
「ついておいでよ・・・」
夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
親のこころに そむいてまでも

恋に生きたい 二人です

Yagiri2

次の6月12日(金)は

【野菊の墓文学碑・矢切の渡し】126 です。

2009年6月 8日 (月)

【柴又・帝釈天】124

浅草から地下鉄で押上駅を経て京成で柴又駅へ、
改札口を出ると、「男はつらいよ」の

渥美清のトラさんの銅像がありました。

Shibamata11

柴又帝釈天への参道、撮影現場の
「とらや」は何時も人込みです。

名物の草団子が食べたくなり買いました。

Shibamata2

柴又帝釈天(題経寺)は、
東京葛飾区と千葉県松戸市の境、
江戸川沿いに、300年程前の寛永年間に

開創されたとありました。

Shibamata3

次の6月10日(水)は

【矢切の渡し】125 です。

2009年6月 6日 (土)

【浅草雷門・仲見世・浅草寺】123

再びゆりかもめで新橋駅へ、地下鉄で浅草へ、
浅草から30分程の千住が生まれ故郷なので
浅草は庭の様なものです。

雷門は何時もの様に人、人、人、でした。

Asakusa1

仲見世を通って浅草寺へ

人込みで歩くのも大変でした。

Asakusa2

宝蔵門(桜門)過ぎると本堂です。
余りにも人の多さにびっくり、

お参りして早々に退散しました。

Asakusa3

次の6月08日(月)は

【柴又・帝釈天】124 です。

2009年6月 4日 (木)

【自由の女神・フジテレビ】122

お台場を散策、自由の女神像です。

1998~1999年日本におけるフランス年を記念して
パリ市セーヌ川の自由の女神がここお台場に移築、
フランスへ帰国後、駐スランス大使館の協力で
帰国した自由の女神の型取りが行われたそうです。
従って

パリのセーヌ川にある自由の女神と同じものです。

Odaiba021

続いてフジテレビへ、7Fまでエスカレーターです。
25Fの球体展望室までは更にエレベーターで到達です。
フジテレビの出口で、ハピふる!と言う番組とか、
インタビューされました。

朝食は和食か、洋食か年齢別に調査しているとの事でした。

Odaiba04

Odaiba03

球体の展望室からの展望です。
レインボウブリッジと対岸の都心が

目の前に広がっています。

Odaiba051

次の6月06日(土)は

【浅草雷門・仲見世・浅草寺】123 です。

 

 

2009年6月 2日 (火)

【天野屋利兵衛の墓・メル友、是松さんに再会】121

天野屋利兵衛は、
赤穂の浅野家に出入りする商人でした。
仇討ち計画をうちあけられ、大量の武器を
調達したと言われています。
一介の商人が大量の武 器を注文するなど
おかしいと、役人に捕らえられて拷問を受ける。
それでも利兵衛はひるむことなく大見得を切ったそうです。
「天野屋利兵衛は男でござる」

芝居や講談で有名な一場面です。

Sengakuji051

大石内蔵助以下17人が切腹したと言う
肥後熊本藩屋敷跡を探しましたが
発見出来ず、仕方なくタクシーで新橋駅へ、
ゆりかもめでお台場海浜公園に到着、昼食としました。
是松さんは中山道の時1日同行して呉れた
10年来のメル友です。当年78歳、10歳も先輩です。
この食欲、元気いっぱいでした。
10年後、こうありたい、と元気を貰いました。
食事後、カメラをタクシーに忘れた事に気付き
急遽ここで別れる事になりました。
後日、カメラは無事戻ったとの事、

やれやれでした。

Odaiba01

次の6月04日(木)は

【自由の女神・フジテレビ】122 です。

2009年5月31日 (日)

【浅野内匠頭の墓・浪士の墓】120

浅野内匠頭の墓です。

Sengakuji09

47士では無く
大石内蔵助良雄以下46人の墓です。
寺坂吉右衛門行高は討入った後、
大石内蔵助に言われていた通り一行を離れ、
主人の奥様のもと赤穂に報告に戻っていて、
切腹処分にならず生き延び、

終生供養のために過ごしたそうです。

Sengakuji081

大石内蔵助良雄の墓です。

Sengakuji061

大石主税良金の墓です。

Sengakuji07

次の6月02日(火)は

【天野屋利兵衛の墓・

  メル友、是松さんと昼食】121 です。

 

2009年5月29日 (金)

【泉岳寺-2】119

田村邸で浅野内匠頭が切腹をしたときに

その鮮血がついたとされる石です。

Sengakuji04

吉良上野介義央の首をこの井戸で洗って

主君の墓前に供えたと言われています。

Sengakuji03

次の5月31日(日)は

【浅野内匠頭の墓・浪士の墓】120 です。

2009年5月27日 (水)

【浅野内匠頭終焉の地・泉岳寺-1】118

地下鉄で築地駅⇒東銀座駅⇒新橋駅へ
徒歩15分で田村右京太夫屋敷跡です。
ここで浅野内匠頭が自刃しました。
日比谷通りに浅野内匠頭終焉の地の

石碑がある筈でしたが道路工事で移動していました。

Sinbashi1

新橋駅へ戻りJR品川駅へ、
中山道の時一緒に旅に同行して呉れた
10年来のメル友の是松さんと
中央改札口のトライアングルクロックで

待ち合わせです。態々激励に来て呉れました。

一緒に泉岳寺へ、
ゴルフで鍛えられているせいか、

早足なのには閉口しました。

Sengakuji01

山門をくぐると、大石内蔵助良雄銅像があります。
連判状を手にして江戸方向をじ っとにらんでいる

姿を表しています。

Sengakuji021 

次の5月29日(金)は

【泉岳寺-2】119 です。

2009年5月25日 (月)

【築地本願寺】117

10分で築地本願寺です。

Honganji1

赤穂浪士、間新六の供養塔です。
本懐を遂げて泉岳寺へ引き揚げる途中、
金子50両を自身の供養料として

塀外から内へ投じたと伝えられています。

Honganji2

Honganji3

次の5月27日(水)は

【浅野内匠頭終焉の地・泉岳寺-1】118 です。 

2009年5月23日 (土)

【浅野内匠頭邸跡・慶応義塾発祥の地・立教学院発祥の地】116

隣の聖路加看護大学に浅野内匠頭長矩上屋敷跡と

説明版と石碑がありました。

Asanotei1

Asanotei2

聖路加病院内には慶応義塾発祥の地と

立教学院発祥の地があったと石碑がありました。

Seiroka2

Seiroka3

次の5月25日(月)は

【築地本願寺】117 です。

 

 

2009年5月21日 (木)

【堀部安兵衛の碑・聖路加国際病院】115

鍛冶橋通りから八丁堀へ向う途中の亀島橋の袂に
堀部安兵衛武庸の碑がありました。
中山安兵衛は武庸剣道の達人で高田馬場の仇討ちで
江戸中知れ亘っていたそうです。
浅野家家臣堀部弥兵衛が見込み養子縁組をして
堀部姓に変わったとありました。
この碑には

堀部安兵衛の武庸の履歴が記されてありました。

Yasubeh2 

新大橋通を30分程で、聖路加国際病院です。

Seiroka11

次の5月23日(土)は

【浅野内匠頭邸跡・慶応義塾発祥の地・

    立教学院発祥の地】116 です。

2009年5月19日 (火)

【赤穂浪士休息の場所・永代橋】114

清洲橋、隅田川大橋を過ぎると永代橋です。
橋の袂に赤穂浪士休息の碑がありました。
東詰めに乳熊屋という味噌屋があり
主人の作兵衛は、赤穂浪士を店に招き入れて、

甘酒粥を振る舞ったそうです。

Kyusoku1

乳熊屋は現存していました。

Kyusoku2

赤穂浪士達は永代橋を渡ります。
この地域は江戸時代から海運の中心でした。
現在では三井倉庫・リバーサイドタワー ・三菱倉庫・

住友倉庫などの高層ビルが林立しています。

Eitaibashi1

Eitaibashi2

次の5月21日(木)は

【堀部安兵衛の碑・聖路加国際病院】115 です。

 

 

2009年5月17日 (日)

【芭蕉庵跡・北の湖部屋】113

武家屋敷を抜ける近道の両国橋を避けて
隅田川を南下するコースを辿ったそうです。
この道は何時か来た道で見覚えがありました。
5年前の『奥の細道を辿る旅』で通りました。
芭蕉は37歳の時、江戸から深川に引っ越しています。

その時の庵がこの隅田川沿いにありました。

Fukagawa31

Fukagawa32

更に隅田川を南下して万年橋を渡ると
橋の袂に弟子の白露山の大麻で理事長を
辞職した北の海部屋がありました。
マンションの一角に稽古場のある思ったより
質素な部屋でした。
角界一の出羽の海部屋を見て来たので

そう思えたのかも知れません。

Kitanoumi

次の5月19日(火)は

【赤穂浪士休息の碑・永代橋】114 です。

 

2009年5月15日 (金)

【両国橋・大高源五句碑】112

回向院の前の京葉道路を5分で、武蔵と下総との

二国に架かる事から名付けられた両国橋です。

Ryougokubasi1

橋の袂に大高源五の句碑がありました。
討入りの夜、俳句の師匠宝井其角に会って

詠んだものといわれています。

Ryougokubasi21

次の5月17日(日)は

【芭蕉庵跡・北の湖部屋】113 です。

2009年5月13日 (水)

【回向院-2】111

江戸一の大火、振り袖火事で多数の死者が出て、
その人達を弔う為に回向院は建立されたそうです。
その時勧進相撲が行われ、

以来力士のお墓も建てられたそうです。

Ekouin3

境内の片隅には鼠小僧の墓もありました。

墓石を削る人がいて、小さくなっていました。

Ekouin4

次の5月15日(金)は

【両国橋・大高源五句碑】112 です。

2009年5月11日 (月)

【時津風部屋・回向院-1】110

直ぐ近くに時津風部屋がありました。
弟子をリンチして殺してしまい
親方が追放された部屋です。
元来、名横綱の双葉山が起こした名門で

立派な造りの部屋でした。

Sumouheya1_2 

徒歩3分の回向院です。
本懐を遂げた浪士達は休息を請うたそうですが

入門を拒否されてしまい、そのまま泉岳寺を目指しています。

Ekouin11

Ekouin2

次の5月13日(水)は

【回向院-2】111 です。

2009年5月 9日 (土)

【吉良邸跡】109

JR両国駅を挟んで、歴史にしばしば登場する

本所松坂町です。

Honjyo1

10分程歩くと吉良邸跡です。

現在は小さな公園になっています。

Kiratei1

吉良上野介義央の上屋敷跡です。
当時は
松坂町1~2丁目(現両国2~3丁目)の
約8400㎡を占める広大な屋敷だった

とありました。

Kiratei2

次の5月11日(月)は

【時津風部屋・回向院-1】110 です。

2009年5月 7日 (木)

【蔵前国技館】108

露天風呂を満喫、途中の道沿いで
お土産の葡萄を買って帰路に着きました。
一宮御坂ICから中央自動車道・首都高速を経て
千住新橋ICで下りて165km走行、

千住の実家にPM.4予定通り到着しました。

本日の走行距離   232.5km

生まれ育ったのは東京下町の千住です。
何時でも行けるの思いから
東京の名所写真は殆んどありません。
良い機会なので出来るだけ歩いて歴史散策をしました。
手始めは忠臣蔵の道を辿る事にしました。
見事に主君の仇討ちを遂げた赤穂浪士が江戸の町を
走り抜けたそのルートを辿りました。
調査によると、午前4時頃吉良邸に討ち入り、
午前6時頃には本懐を遂げて吉良邸を退去、
午前8時頃には主君の眠る泉岳寺に到着しています。
小生も吉良邸を午前6時に出発する為に
千住の実家を5時に出発しました。
地下鉄日比谷線五反野駅⇒秋葉原駅⇒総武線両国駅です。

両国駅で降りると目の前が蔵前国技館です。

Kokugikan1

明日から9月場所で、関取の幟が活気を出していました。

Kokugikan21

次の5月09日(土)は

【吉良邸跡】109 です。 

2009年5月 5日 (火)

【ほったらかし温泉】107

武田神社を後に約20kmでほったらかし温泉です。

Hottarakasi1

こっちの湯とあっちの湯があります。

こっちの湯は清掃中で、あっちの湯に入りました。

Hottarakasi2

Hottarakasi3_2

丁度昼時で一人だけ入浴していました。
眼下に甲府盆地が開け、甲斐の山々や
富士山が望遠出来る絶景です。
雄大な景色を眺めながらの露天風呂は最高でした。
旅の話で盛り上がり、写真を撮らせて欲しいと
頼んだら快諾してくれました。

この写真はその男性が撮って呉れた1枚です。

Hottarakasi41

次の5月07日(木)は

【蔵前国技館】108 です。

   

2009年5月 3日 (日)

【武田氏館跡】106

武田氏館跡です。

Takeda31

Takeda4

Takeda5

次の5月05日(火)は

【ほったらかし温泉】107 です。

   

2009年5月 1日 (金)

【武田神社】105

甲府市内へ12kmで武田神社です。
御存知の武田信玄の館跡です。
大好きな『武田節』を思い出しました。
実は転勤で東京を離れる時、

よくこの歌詞が好きで唄っていました。

【武田節】
1. 甲斐の山々 陽に映えて
   われ出陣に うれいなし
   おのおの馬は 飼いたるや
   妻子(つまこ)につつが あらざるや
   あらざるや
2. 祖霊(それい)まします この山河
   敵にふませて なるものか
   人は石垣 人は城
   情けは味方 仇は敵

   仇は敵

Takeda1

Takeda2

次の5月03日(日)は

【武田氏館跡】106 です。

 

2009年4月29日 (水)

【昇仙峡】104

国道20号線、甲州街道に出て
釜無川沿いに韮崎に向かいます。
40kmで昇仙峡に到着です。

一方通行の川沿いの路を進みます。

Syousenkyo1

Syousenkyo2

石門で通行止めになっていましたが強引に進みました。

Syousenkyo3

石門を潜ると、日本の滝100選にも選ばれている

落差30mの仙峨滝です。

Syousenkyo4

次の5月01日(金)は

【武田神社】105 です。

2009年4月27日 (月)

【尾白川キャンプ場】103

今夜は近くの尾白川オートキャンプ場です。
流石にこの時期はシーズンオフで
チェックインしたのは1人だけと言われました。

今夜はキャンプ定番のカレーにしました。

本日の走行距離   132.6km

Ojirogawac1

キャンプ場の夜明けです。

今日も天気に恵まれて快晴です。

Ojirogawac2

南アルプスの甲斐駒ケ岳(2966m)が
目の前に聳えています。
朝食は景色を眺めながら、
焼き餅を5個、味噌汁に入れた雑煮です。

食後のコーヒーが格別でした。

Ojirogawac31

次の4月29日(水)は

【昇仙峡】104 です。

2009年4月25日 (土)

【白州、尾白の森名水公園】102

県道28号線で八ヶ岳山麓を下り、
中央自動車道の長坂ICを越して
南アルプスの懐へ向います。
約25kmで白州、尾白の森名水公園べるがに

到着です。

Hakusu4

公園内の尾白の湯で入浴、

露天風呂で1日の疲れを癒しました。

Hakusu5

次の4月27日(月)は

【尾白川オートキャンプ場】103 です。

2009年4月23日 (木)

【野辺山駅・吐竜の滝】101

美し森から10kmでJR最高所駅です。

小海線野辺山駅で標高:1345mです。

Nobeyama1

駅前の景色です。

Nobeyama2

野辺山駅から清里駅を過ぎて
約10kmで吐竜の滝に到着です。
竜が水を吐くように、 水が岩の上を流れ落ちる

ところから付いたそうです。

Doryunof1

Doryunof2

次の4月25日(土)は

【白州、尾白の森名水公園】102 です。

 

 

2009年4月21日 (火)

【美し森】100

7kmで美し森駐車場です。
散策路の階段を10分程上がると

美し森展望台です。

Utukusim1

目の前に八ヶ岳の主峰の赤岳(2899m)と

横岳(2830m)の岩峰が迫って来ます。

Utukusim21

次の4月23日(木)は

【野辺山駅・吐竜の滝】101 です。

2009年4月19日 (日)

【天の河原】099

八ヶ岳の権現岳への登山道を30分程

登ると天の河原に出ます。

Amanokawara1

天の河原にある道標です。

Amanokawara3

八ヶ岳の権現岳(2715m)です。

Amanokawara2

正面に富士山が望遠出来ました。

富士の姿はやっぱり日本一の山です。

Amanokawara4

次の4月21日は

【美し森】100 です。

   

2009年4月17日 (金)

【天女山】098

中央自動車道で諏訪IC⇒小淵沢ICを経て
八ヶ岳高原ラインで快適なドライブ
約50kmで天女山です。
鬱蒼とした木々で展望はなく、石碑と名前の

由来があるだけでした。

Tennyosan1_4

Tennyosan21_2

次の4月19日(日)は

【天の河原】099 です。

 

2009年4月15日 (水)

【諏訪大社上社本宮-2】097

日本の三大奇祭のひとつ、
7年に1度の御柱祭りがあります。次回は平成22年です。
中でも木落としは危険で平成四年のお祭りまで

五度連続死者が出ています。

Suwataisya3

Suwataisya41

勧進相撲が良く行われていたそうで、

境内に雷電為右衛門の銅像がありました。

Suwataisya5

次の4月17日(金)は

【天女山】098 です。

2009年4月13日 (月)

【諏訪大社上社本宮-1】096

ピタラス蓼科ロープウエイから諏訪へ、

25kmで諏訪大社上社本宮に到着です。

Suwataisya1

Suwataisya2

次の4月15日(水)は

【諏訪大社上社本宮-2】097 です。

 

2009年4月11日 (土)

【北八ヶ岳坪庭-2】095

縞枯れ現象は遊歩道からも見えます。
山頂に向かって山の斜面が何列もの白い縞に

見えます。

Ropeway4

南八ヶ岳連峰です。
左:主峰の赤岳(2899m)

右:阿弥陀岳(2805m)

Ropeway5

南アルプス連峰の北岳(3192m)・

甲斐駒ケ岳(2966m)・仙丈ケ岳(3033m)です。

Ropeway6

中央アルプスの木曾御岳山(3067m)です。

Ropeway7

次の4月13日(月)は

【諏訪大社上社本宮-1】096 です。 

2009年4月 9日 (木)

【北八ヶ岳坪庭-1】094

15km、45分の山岳ドライブで
北八ヶ岳、横岳山麓 のロープウエイ駅に到着です。
一気に標高2240mへ、北横岳(標高2472m)と
縞枯山(標高2403m)の鞍部にある坪庭です。

坪庭の遊歩道一周1km 、 約30分の散策でした。

Ropeway1

Ropeway2

目の前の蓼科山(2530m)です。
学生時代に登りました。
なだらかな様に見えますが
山頂直下は急斜面の標高差約800mの直登でした。
急なガレ場となっていて大変な思いをして

登った事を思い出しました。

Ropeway3

次の4月11日(土)は

【北八ヶ岳坪庭-2】095 です。

 

2009年4月 7日 (火)

【蓼科女の神展望台-2】093

南アルプスが目の前に展開します。

Onnanokami22

左:北岳 と 右:甲斐駒ケ岳です。

Onnanokami4

中央アルプスの木曾御岳山です。

Onnanokami5

次の4月09日(木)は

【北八ヶ岳坪庭-1】094 です。

2009年4月 5日 (日)

【蓼科女の神展望台-1】092

ピラタス蓼科ロープウエーへの途中にある
女の神展望台です。
八ヶ岳連邦が目の前に展開し、
南アルプス・中央アルプスの御岳山まで

素晴らしい眺望でした。

Onnanokami1

Onnanokami21

八ヶ岳連邦です。

Onnanokami31

次の4月07日(火)は

【蓼科女の神展望台-2】093 です。 

2009年4月 3日 (金)

【白樺湖】091

車山を経て約10kmで白樺湖です。
湖岸を半周程すると、日帰り温泉施設の
白樺湖温泉、すずらんの湯です。
今夜は湖畔で車中泊です。
インスタントのイカ焼きそばとライスで
簡単に済ませました。こう言う場所では
何を食べても実に美味しいものです。

満足、満足、でした。

本日の走行距離は   251.1km

Shirakabako1

出発前、白樺湖岸からの
蓼科山(2530m)です。

今日も天気になりそうです。

Shirakabako2

次の4月05日(日)は

【蓼科女の神展望台-1】092 です。

2009年4月 1日 (水)

【霧ヶ峰、富士見台】090

8km、で霧ケ峰富士見台です。

Fujimidai1

八ヶ岳連邦が目の前に
広がっています。
遠方がガスっていて、
肉眼では見える富士山が

写真に写らず残念でした。

Fujimidai21

次の4月03日(金)は

【白樺湖】91 です。

2009年3月30日 (月)

【八島高原】089

快適なドライブで10km、30分で八島高原です。

Yasimas1

湿原が広がっています。
30数年前、子供達が小学生の頃
ここでキャンプをした事を思い出して、
当時の跡を歩きました。
懐かしくなり、その場で子供達にメール送信、
直ぐに返信があり、今でも覚えている

との事でした。

Yasimas2

Yasimas3

あの日は家内を残して、
子供達と鷲ヶ峰に登り、翌日に4人で
車山を経て白樺湖へ下り、湖岸の温泉で
1泊して帰りました。
子供達は二人乗りの自転車で湖岸を
一周した事も覚えていました。

今日は懐かしい昔を思い出した1日でした。

Yasimas4

次の4月01日(水)は

【霧ヶ峰、富士見台】090 です。

 

2009年3月28日 (土)

【三峰展望台】088

ビーナスラインを扉峠まで戻り快適なドライブが続き、

15km,45分で三峰展望台です。

Mitsumine1

浅間山が近くに望遠出来る様になりました。

Mitsumine2

次の3月30日(月)は

【八島高原】089 です。

 

2009年3月26日 (木)

【美ヶ原高原美術館-2】087

≪ 空相≫

Utsukusigahara05_2

≪雲の墓標≫

Utsukusigahara06

標高2034mから360°の大パノラマです。

今日は通って来た浅間山も望遠出来ます。

Utsukusigahara04

次の3月28日(土)は

【三峰展望台】088 です。

 

2009年3月24日 (火)

【美ヶ原高原美術館-1】086

山岳道路で扉峠へ、峠からは
ビーナスラインで快適なドライブ32km、
約100分で美ヶ原高原美術館です。
以前は矢鱈に料金所がありましたが

無料化され、実に快適なドライブでした。

Utsukusigahara01

野外美術館の作品です。
雲一つ無い青空により一層栄えていました。

≪愛のモニュメント≫

Utsukusigahara02_2

≪神の化身(ガンジーがモデルです)≫

Utsukusigahara03

次の3月26日(木)は

【美ヶ原高原美術館-2】087 です。

   

2009年3月22日 (日)

【源智の井戸・松本城】085

上田菅平IC⇒松本ICを経て、95kmで
江戸時代から滾々と湧いている 『源智の井戸』 です。

ここで足柄SAで汲んで来た水を入れ替え、補充をしました。

Genchiido1

Genchiido2

3kmで国宝の松本城です。
石川氏が秀吉への忠誠の証として黒くしたそうです。
関ヶ原の闘い後、小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾により

深志城を取り返して松本城と名銘したとありました。

Matsumotojyo1

Matsumotojyo2

次の3月24日(火)は

【美ヶ原高原美術館-1】086 です。 

 

2009年3月20日 (金)

【無言館】084

12kmで無言館です。戦死した画学生宅を訪ねて
蒐集した絵が展示されています。

ここには一度来たかった思いがありました。

   ≪ あなたを知らない ≫
遠い見知らぬ異国で死んだ画学生よ、
私はあなたを知らない。
あなたの絵は朱い血の色に染まっているが、
それは人の身体を流れる血ではなく、
あなたが別れた祖国のあの故郷の夕灼け色、
あなたの胸をとめている父や母の愛の色だ。
どうか恨まないで欲しい、どうか泣かないで欲しい・・・

                      窪島 誠誠一郎

Mugonkan1

館内は全て写真禁止でした。

Mugonkan2

次の3月22日(日)は

【源智の井戸・松本城】085 です。

 

2009年3月18日 (水)

【上田城跡】083

松井田妙義IC⇒上田菅平ICを経て68kmで、
上田城跡公園に到着です。
武田信玄家臣真田幸隆の子昌幸が上田城築城、
昌幸、幸村は豊臣方についたが、
徳川方についた信之(昌幸の長男)が1622年まで
上田を統治した後、江戸時代は上田藩松平氏
五万三千石の居城となったとありました。

上田城の再現された大手門です。

Uedajyo1

Uedajyo2

Uedajyo3

Uedajyo4

次の3月20日( 金)は

【無言館】084 です。   

2009年3月16日 (月)

【妙義もみじの湯・道の駅、みょうぎ】082

道の駅、みょうぎに戻る途中にある、
妙義ふれあいプラザもみじの湯で
汗を流して休息です。

夕食はレストランでラーメンライスとしました。

Myougi10

今夜は道の駅、みょうぎで車中泊です。

どうやら明日も天気になりそうです。

本日の走行距離   172.7km

Myougi07

道の駅、みょうぎの夜明けです。

Myougi08

松井田の早朝の田園風景が見渡せます。

Myougi09

次の3月18日(水)は

【上田城跡】083 です。

2009年3月14日 (土)

【妙義山登山・山の夕景】081

一旦道の駅まで戻り、山岳道路で中之岳大駐車場へ、
第一石門、カニの横這い第二石門まで
鎖を頼りに登りましたが急な岩場の連続で

暗くなると危険なので退却する事にしました。

Myougi04

Myougi05

遠景は夕日の荒船山です。

Myougi06

次の3月16日(月)は

【妙義もみじの湯・道の駅、みょうぎ】082 です。

   

2009年3月12日 (木)

【妙義山・妙義神社】080

JR高崎駅⇒高崎IC⇒松井田妙義ICをへて、

道の駅みょうぎに到着です。

Myougi011

長い石段を上ると妙義神社です。

神社の裏が山崩れで工事中の為、通行禁止でした。

Myougi02

Myougi03

次の3月14日(土)は

【妙義山登山・山の夕景】081 です。

 

2009年3月10日 (火)

【赤城山覚満淵】079

大沼に沿って暫く進むと
赤城山ビジターセンターがあり、
周囲1km程の高層湿原が広がっています。
湿地には木道が敷かれていて、

小尾瀬とも呼ばれています。

Akagi5

景色を楽しみながら約1時間の散策です。
散策後赤城山を下りて前橋で遅目の昼食、
ここで2泊3日の旅行を終わりました。
JR組を高崎駅まで送って

又一人旅の始まりです。

Akagi6

Akagi7

次の3月12日(木)は

【妙義山・妙義神社】080 です。

2009年3月 8日 (日)

【赤城山大沼・赤城神社】078

翌日は雲一つ無い快晴となりました。
水上ICから沼田ICへ、
赤城山への山岳ドライブです。

65kmで赤城山の大沼です。

Akagi1

Akagi2

Akagi3

次の3月10日(火)は

【赤城山覚満淵】079 です。

   

2009年3月 6日 (金)

【宝川温泉、汪泉閣】077

16kmで宝川温泉、汪泉閣です。
昔は藤原湖を船でしか行けなかった
秘湯でしたが道路が整備され

物凄く俗化されていました。

Housenkaku1

露天風呂も整備され過ぎていて

昔の自然は消えてしまい期待倒れでした。

Housenkaku2

Housenkaku3

何が日本一の露天風呂なのか
理解に苦しむ所です。
プールと間違えているのか、
若い3人連れが水着で入浴していたのには
驚きました。

もう二度と行きたくない温泉でした。

本日の走行距離   143.3km

Housenkaku4

次の3月08日(日)は

【赤城山大沼・赤城神社】078 です。

 

2009年3月 4日 (水)

【天神峠・天神山】076

丁度雲間に

谷川岳のトマの耳とオキの耳が目の前に見えました。

Imi20

Imi21

天神山のピークです。

この分なら明日も好天に恵まれそうです。

Imi22

次の3月06日(金)は

【宝川温泉、汪泉閣】077 です。